山歩きと韓国


by futei8
3.11 ジョナス・メカスの映像


英語サイトへのリンクジョナス・メカスの日記


以下は日本で放映されたTV番組より静止画像撮影

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参考文献案内

ペトラルカ 『無知について』
近藤 恒一 訳 254頁
■定価 693円
■2010年3月16日
善良だが無知な人間,と同時代知識人に批判されたペトラルカ.アリストテレスこそが〈神〉,その自然哲学に暗いとは,と謗(そし)る敵陣を,人間主義・反権威主義で迎撃し,古典文献収集と言語研究の必要を説いた著者.雄弁の復権,プラトン再読などの基本構想を具体的包括的に述べたルネサンス人文主義(ユマニスム)最初の宣言書.晩年の主著.


ペトラルカ 『ルネサンス書簡集』
近藤 恒一 編訳
■定価 735円(本体 700円 + 税5%)
■1989年9月18日
イタリア文学の三巨星の一人で,ルネサンス運動の首唱者であったペトラルカ(一三〇四―一三七四)は,偉大な詩人であるとともに,常に自己自身を問いつつ哲学するモラリストであった.ここに収録した23篇の手紙は,ペトラルカが親しく同時代人や古代人,後世の人に呼びかけたものでモラリストとしての真骨頂を浮彫りにする.本邦初訳多数.


『ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡』
近藤 恒一 編訳  394頁
■定価 945円(本体 900円 + 税5%)
■2006年12月15日
桂冠詩人と『デカメロン』の著者──ルネサンスの二大文豪の文通は,イタリア都市国家の抗争する時代に文人たちが何を考え,いかに生きたかの証言でもある.著書を贈り写本を集め古典研究をリードしたユマニスムの創始者と偉大なその弟子.晩年の手紙にはペトラルカの叡智が光り,稀有の友情が読みとれる.全書簡本邦初訳.
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# by futei8 | 2011-11-19 10:03
2011年8月15日放映 DVD再生画面の画像
取材を受けました。また文献紹介で協力。

SBS特別放送
韓国ソウル放送の八月一五日の独立記念特別番組の企画が『日本人の独立運動家』、幸徳秋水、 金子文子、布施辰治を中心に描き、日本人でありながら朝鮮の独立運動に大きな影響を与えた人物のドキュメンタリーとして制作される。私への取材があり文献での全面的な協力を依頼された。その過程で従来研究対象としていた明治学院大学図書館の沖野岩三郎文庫の「千九百十年事件」の巻物を直接閲覧することができた。安重根の肖像写真と幸徳の漢詩のポストカードも貼りつけられていた。

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# by futei8 | 2011-08-15 05:50

萩原恭次郎

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赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・序  改定 2011.6



一 赤堤

「恭次郎君は、カラカラと日和下駄の音をさせてやってきた。世田谷、赤堤一丁目の山本というお百姓さんの畑の中にあった私たちの家へ。つまり図書出版渓文社へ、昭和六年の秋のある昼過ぎであった。彼は風呂敷包みから『断片』の原稿を出して〈是非これを作ってもらいたい。表紙にはボルトのカットをつけてくれ給え。ぼくの希望はそれだけで、あとは君にまかせるから、たのむ。〉と言って、その夜は泊まった。…脊椎カリエスで寝ていた竹内てるよ君も寝床に、はらばいになったまま仲間にはいり、賑やかな晩餐となった。恭次郎君はよく笑い、しゃべり、きげんがよかった。竹内君もよく笑う。」 神谷暢〈詩集『断片』が出来るまで〉

赤堤、詩人の竹内てるよが詩集を刊行していた図書出版、渓文社の所在地であった。そして一九三〇年代から十数年間の住まいでもあった。


渓文社は何処に在ったのか……刊行された書物のこと、いつ迄続いたのか……渓文社、これ迄に赤堤に存在した唯一の出版社である。

渓文社に関する詩人たちの記述は少なく竹内てるよを調べ始めた当初、渓文社は遥かに遠い存在であった。当時の住所は刊行書の奥付や同時代の出版物の広告に記されているので、それを手がかりに現在のおおまかな地域は調べられる。一九三七年刊行の「一万分の一地形図〈経堂〉」を調べ、地形図に見入る。経堂と豪徳寺駅間の北側には畑地が広がっている。その畑地の中に住居の印が点在している。道は農道であるのか畑に沿って湾曲している。三一年の萩原恭次郎は、数年前に開通したばかりの小田急線を利用し、豪徳寺駅か経堂駅から降りたのであろうか、或いは世田谷線の最寄駅を利用したのか。恭次郎はしばらく若林に住んでいたので世田谷にはなじんでいた。若林に居た当時、豪徳寺の境内までは散歩の範囲であったことは推測できる。さらに甲州街道方面まで足を伸ばしたことはあるのだろうか。

背が高い日和下駄の恭次郎は七〇年前の赤堤を歩き竹内たちの住まいに向かっていた。恭次郎を待つ二人は貧しいゆえ特別なもてなしは用意できなかったが歓待の気持ちだけは充分にあった。

渓文社の出版活動の情報は限られていたが少しずつ文献が集まってきた。主宰していた二人は共に詩人。神谷暢は七七年に死去、著作は刊行されていない。もう一人、竹内てるよは自伝も含め著作は多いが、この時期に関しての記述はあえて曖昧にしているのか赤堤にいた時期は具体的には書かれていない。竹内は長命で二〇〇一年に九六歳で死去。

 渓文社の時代、二人と近かった詩人たちの著作を調べるしかなかった。八八年に亡くなっている詩人秋山清が著書『あるアナキズムの系譜』(七三年発行)で章をたて渓文社の事蹟を述べていた。またそのテキスト中には神谷暢との対談も短いが収載されていた。

 それによると渓文社は短い期間であるが竹内以外にも後に評価され著名になる詩人たちの詩集の出版に力を注いでいた。

文献をさらにたどると六八年に発行された『萩原恭次郎全詩集』(思潮社刊)に付された小冊子に神谷が当時の思い出を掲載していた。そのテキストの一部が冒頭に引用したものである。

 赤堤の渓文社の一室。むしろ木造の貸家の住まいそのままを出版業務も兼ねた部屋という方が正しいかもしれない。

 竹内は赤堤の家を回想、以前はここはまだ竹藪や畑ばかりであり農家は二、三しかなく、子供にあめを一つ買ってやるのも、畠を越えて歩いて行った、しかし電車が開通してから、あまり歩かなくなった、と語る。渓文社の一角は世田谷でもあまりひらけないところであったが竹内たちがこの家に住むようになってから、大分にひらけて来たというのである。借家建てとしては一番古い家で、東京のお金持ちが、病身のむすこのために建てたので狭い、と住まいの由来と様子も語っている。(『愛と孤独と』、五二年発行、宝文館刊)。

 恭次郎は渓文社の二人を前にして、自分の詩集を刊行する目途がついたせいか酒なしの晩餐でも気分がよかったようである。恭次郎はおとなしくなっていた。ほんの一〇年程前、『赤と黒』の刊行前後、本郷白山の南天堂二階で連日酒を飲んで騒いでいた「疾風怒涛」時代の恭次郎とは異なっていた。そして「活動」の時期も経て、故郷での家族との生活が恭次郎を変えていた。

昭和の始めの世田谷である、畑地の周りは竹やぶがあり樹木も多かったであろう。部屋で半日談笑していると鳥たちの啄みの声も恭次郎たちに心地よく響いたであろう。竹内にとってこの数年間は充実した日々であった。神谷の詩人としての同志的な生活の支援に始まり、草野心平による初めての詩集『叛く』の刊行、六郷での坂本七郎の励まし、各詩誌への精力的な発表。竹内にとって恭次郎の消息は詩誌を通じて承知していても直接会う機会はそうあるものではなかった。話は弾んだに違いない、詩論や仲間たちの消息、直接聞くことができるということは竹内に活力を与えただろう。そして恭次郎の二冊めの詩集を刊行する作業に立ち会えることは大きな喜びであった。

恭次郎に限らず二人と関わりがあった詩人たちの貧乏ではあるが熱い思いの時代を探り、渓文社と書物をめぐる物語の序章としたい。

二 萩原恭次郎

 一九三一年まで、詩集『死刑宣告』が恭次郎にとっては唯一の著作であった。話題をよんだが、ダダイストや未来派の芸術家との共同作品の側面もあり、恭次郎にとっては表現し終えた作品集であり再版以降は増刷を承諾しなかった。

そしてアナキズムの立場を強めた恭次郎にとって仲間たちの手で自分の詩集が制作されることはその数年の活動を集約したものになり刊行するという決意は強いものであった。

恭次郎は一八八九年五月二三日、群馬県南橘村に生れる。二三年一月、壺井繁治、岡本潤らと雑誌『赤と黒』を創刊、『赤と黒』は、当時のダダイズム、未来派などの文学運動の先駆となる。二四年頃連日のように本郷、白山上の南天堂レストランに出入り乱酔していた。二五年、第一詩集『死刑宣告』を長隆舎より出版、二七年一月、雑誌『文芸解放』を壺井繁治、小野十三郎、岡本潤らと創刊。同年五月、世田谷町若林に移る。八月、文芸解放社はサッコ、ヴァンゼッティ釈放要求運動の中心となり、恭次郎も八月二三日に築地小劇場で抗議演説、その後米国大使館に押しかけ石川三四郎、新居格らと共に検束留置される。

これまでの恭次郎の年譜では以下の回想には触れられていない。当時の詩人仲間、金井新作は「まだ、世田谷の若林で、我々が共同生活をしていた頃、或る日、恭次郎と共に尾崎喜八を訪ねた」と回想している。またこの年、駒場に住んでいた詩人の秋山清がたびたび往来していたことは秋山自身の回想にある。「彼(恭次郎)が東京世田谷の若林あたりの、まわりに水田の多かった家に住んでいた頃で、そこからそう遠くない駒場にいた私は休みの日など時々出かけていったそのころ小野十三郎は私とは帝大農学部を距てた代々木富ヶ谷に住んでいた」『あるアナキズムの系譜』。徒歩で二〇分もかからない距離であろう。そうすると記述としては残されていないが小野も恭次郎と往来していた可能性は充分ある。小野は南天堂出入りの時期、そして文芸解放社で恭次郎と行動を共にし一番親密な時期であった。若林の具体的な番地を現時点では確認することができない。恭次郎は頻繁に書信を出すことはなかった。とくにこの時期の便りは警察との緊張関係も影響し受けたほうもすぐに処分をしていたのではないか。ただ『黒色青年』(黒色青年連盟機関紙)一二号(一九二七年九月発行)の消息欄に「文芸解放社は東京市外世田谷若林五二七壺井方に移転」とある。恭次郎が壺井と同下宿か近所に間借りしていた可能性は大きい。

少し金井に触れる。一九〇四年、静岡県沼津町生まれ。詩に関心をもち二六年、尾崎喜八を知る。二七年『文芸解放』、他にもアナキズム文芸誌の同人となり寄稿も多数。慶大仏文科を卒業、三四年には古本屋を経営しつつ自らの詩集を刊行する。同志の詩人碧静江と結婚。

恭次郎は二八年一〇月頃、東京を離れる。二九年五月、前橋で草野心平が刊行していた詩誌『学校』第五号に「断片」と題した詩を三編寄稿する。以降同じ『断片』という題で詩を発表し続ける。三一年、詩集出版を相談するため上京、「詩神」社を訪問。小野十三郎らと交遊。翌日高橋新吉、坂本七郎、渓文社の神谷暢、竹内てるよを順次訪問。さらに既述の渓文社訪問となる。一〇月にその第二詩集『断片』を出版。三二年、謄写刷りの詩誌『クロポトキンにおける芸術の研究』を謄写刷りで発行、自分で原紙をきり刷る。



 恭次郎は仲間達との共同性を意識していた。一九三一年一月に発表された評論、〈生産本位の芸術より消費本位の芸術生産へ〉において展開している。恭次郎は、詩をつくるつくらん、製本する製本せん、そんな問題は更に重要さを持たないと主張。…作者も共同者も助言者も、植字工も製本工も、各自の能力に従って共同の思想、全体に尊重の出来る作品なり行動なりをつくり出す以外の何者でないと、共同作業の過程が重要だと訴えている。恭次郎は文化人として、作家としての詩人の位置にとどまる気はさらさもなかった。仲間たちとの共同を求め、それぞれが担当する部分で力を発揮することが最良の作品をつくりあげると確信していた。竹内の苦闘も表現している。

 詩〈あんまり考えるな──ある女の像──〉抄              

肉体は木乃伊になろうと最後の呼吸まで正しく吐いて死体にならう。かつてその乳房は乳児の歯のない口が噛んだのだ。/……新宿の雑踏の片隅で赤や白の花を売る。それはごみごみの屋根裏から貧血の足を踏んで出て来たのだ。/ ……この日、彼女を肩にしてその屋根裏に夜を明かして介抱してくれた青年の顔は、火の如く燃えていた。 /……怖ろしい喀血の咽喉に湿布する手。カリエスの痛みに気絶する彼女を縛して堪へさせる手。

竹内の二八年頃の生活を描写。病気の身体で新宿駅頭に立つ竹内の存在は仲間の詩人たちの間ではすでに知れわたり、その竹内の生存をかけた花売りの姿を恭次郎は表現している。青年は神谷であろうか看病の姿を描いている。

三 竹内てるよ           

竹内は詩作を始めるまで、その短い人生において大きな苦難を経験してきた。一九五二年に発行された自伝『いのちの限り』(竹内てるよ作品集一、宝文館刊)を参考にする。一九〇四年、竹内は札幌で生誕後から生母と生き別れる。父親は銀行員、母親は半玉であり二人の仲は許されなかった。父親は借金を作り家には寄り付かず判事として北海道を異動する祖父と祖母のもとで育てられる。祖父の退職後一家で東京に出るが竹内は家計を支えるため、女学校を中退し商事会社の事務員となる。文学好きで仕事を終えると創作にいそしんでいたという。一六歳で『婦人公論』の短編募集に応募し入選、それが縁で他の出版社を紹介され記者となる。二四年五月、二〇歳で結婚、出産。二四歳にて脊椎カリエスに罹り病床に伏し離縁され、子供は手放してしまう。そして闘病生活の過程で詩の創作を始める。二八年『詩神』(福田正夫編集、実務は神谷暢)に作品を持ち込む。小田急線代々木上原駅近くに住まいがあったという。病身で我が子と引離され貧困の中で詩の執筆を続けるという生活に根ざした女性の登場は詩人仲間に衝撃を与え同情が広まった。二九年はアナキズム系文芸誌にも寄稿が始まる。「当時竹内君の病状は悪く、ほとんど毎日の喀血、血便、貧血による 人事不省状態の連続」と神谷は回想している。〈『渓文社』事始め〉。この頃の竹内の詩は晩年の著作にも収録されることもあるが、「評論」は初出誌でしか読むことができない。掲載誌は『黒色戦線』二九年四月号(第一巻第二号)である。

〈或る婦人参政権論者への手紙〉「Kさん 婦人参政権ははたしてそれを得ることによって全日本のしひたげられた女達の希望と幸福とをかち得るほど、それほど重大なものでせうか? Kさん おしつけがましい社会運動にはどん底生活者の婦人達はすべて愛想をつかしました。…参政権よりも一升の米です。…Kさん …私は現制度の破壊と、新しきアナキズムの社会の建設とを主張したいと思ひます……」

次に、『黒色戦線』五月号(第一巻第三号)では「生みの母」へ呼びかける形で、自己の出産、公娼廃止運動への批判を語る。この自己の出生に関しては戦後の回想、エッセイで繰り返し触れられて行くが活字化されたのは『黒色戦線』誌が最初ではないのか。

〈母さんあなたは生きていますか〉「母さんあなたは生きていますか。それとも、もう死んでしまはれたでせうか。…私は、こゝであなたへの積年の思慕や、感傷に沈んでゐるべきでないことをようく知ってゐます。」とまず生き別れといわれている母親への呼びかけで文章を始めている。

「母さん、…売れっ子であったあなたの妊娠は、烈しい鞭となってあなたを責め店の女将のけはしい言葉や、同輩たちの冷酷なさゝやきの中にどんなに心せまい思ひをなさったでせう。……」

 後年、竹内が聞かされたわずかな母親の出産前後の置かれた状況を述べている。

「母さん、現在東京のブルジョア婦人達は、彼女達のおざなり婦人運動の中に公娼廃止といふのもやってゐます。……私の身内に流れるあなたの血は、はっきりとそれを笑ってゐます。……この社会の苦悩から私達を解放するのは、決して少数政治家や支配者の寛容ではありません。民衆の中に民衆の生んだ正義への革命の日をおいて何時を信ずることが出来るでせう。……」

 この結論は当時の仲間たちと話し合い、運動紙誌を読み、急速にアナキズムを学ぼうとした影響が強く出始めている。気張った言い方ではあるが竹内なりの自分の境遇と重ねた精一杯の表現である。竹内は前述したように、坂本七郎の個人詩誌『第二』にも詩を掲載。仲間たちの詩誌へ毎月寄稿する。

 病身で自ら生活費を稼ぐという生きる欲求のエネルギーは周りの詩人たちを動かして行く。男の詩人たちも貧困の中で詩作を続けてきている故中途な同情ではないだろう。子と離され生活と表現を続ける竹内の存在に圧倒されていたのだろう。三〇年には秋山らの『弾道』、三二年には恭次郎の『クロポトキンを中心にした芸術の研究』に寄稿。同誌には「草野心平君、ヤキトリ屋……」「坂本七郎君、失業中」「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」と恭次郎が仲間たちの動向を簡単に記している。北海道、山形の『北緯五十度』、福島の『冬の土』誌と列島を縦断し竹内の寄稿先は広がってゆく。
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# by futei8 | 2011-06-07 09:03

萩原恭次郎2

四 神谷暢と渓文社

 渓文社の創設は竹内てるよの存在抜きに語れない。直接の契機は竹内の詩集を刊行したいということであった。

一九二八年、神谷は竹内との共同生活を滝野川の八百屋の二階、四畳半で始める。神谷は〇五年、東京生まれ、父親は医者であったという。二三歳の神谷と竹内の出会いは詩作活動を通じてであろう。同年一二月三一日、川崎に住んでいた詩人であり市会議員にもなった陶山篤太郎経営の川崎新聞に神谷が印刷見習いとして通うことにした。そのため竹内と神谷は川崎と対岸の「六郷土手」に移る。東京府荏原郡六郷高畑六四四。竹内は前出の著作で渓文社の最初の地も回想し、その家は六郷川の川原にある土手の下で、よくコスモスが一杯にさき、そして川にはいつも少し風があったとささやかな多摩川土手の自然をなつかしがっている。そして病いが続き神谷との共同生活に触れ、「私はいついゆるとも知れない病床にいたし、私とその年、一緒に生活しはじめたKという友達、この人と私は今も親密に交際している」と、戦後も共同生活が続いていると述べている。六郷高畑は現在の大田区西六郷である。多摩川が大きく湾曲して形成された河口州になる。神谷のこの六郷時代を描写した詩が二人の生活をよく表現している。

詩「二人 」抄                  神谷暢              

米箱には米はなかった /お米を買ふ金はなほさら無い /どうしたらいゝかを二人は考えた /俺達は貧乏を泣かない /金持といふことが何んの値打ちでもないと同じやうに /貧乏といふことは何んの誇るべき値打ちでもない /リヨウマチが俺を仕事から引き離した /俺は永いこと寝てゐた /俺は痛む足をバスケットの上へのせて寝たなりで童話なぞ書いた /身體の動かない彼女も熱や痛みと戦ひながら原稿を書いた/…/省線のがたがたに震へる二軒長屋の三畳の部屋で /俺達は段々落ち込んでゆく貧乏を感じてゐた /俺達は俺達の全力を合はせて生きてゆかうと強く思つた /俺達は貧乏を恐れまい /俺達は朗らかでゆかう。

竹内だけではなく神谷まで病気持ちで生活費を稼げないとある。竹内には草野心平らが「死なせない会」を設立し高村光太郎や尾崎喜八は現金での支援もしていたらしい。秋山は渓文社に関して「昭和四、五年頃からその存在ははっきりと記憶にのこっている。そこから刊行した詩集など記憶につよいものがあり、中浜哲の『黒パン党宣言』その他が発禁になったことも知っている…」と神谷との対談で語っている。また「アナキズム系詩人の一拠点のように見なされることになったのである。自分たちで刷り物をつくって撒く。自分の手で出版して売る、分ける。仲間のものを印刷する。 発禁になる前に配ってしまう。……」と渓文社の印象を残していた。神谷は「最初に刷ったのがこれなんだ」と、活版の詩集『叛く』を示し「寝てばかりの竹内がよろこんで、元気になったよ」と懐かしむ。この六郷で、仲間に呼びかけ活字を購入し神谷自身が学んだ活版印刷技術を基に、後に「けい」の漢字は渓と改めるが啓文社として始められる。頁物を制作できる九ポイントと六号活字が揃ったという。秋山が語っているようにアナキズム的思想の啓蒙。詩集、文集、童話、パンフレット、小新聞等の発行と印刷所の経営を目指したのである。「次がまた竹内の『曙の手紙』こいつは警察から注意されたね。それから別にガリ版で『相互扶助』という雑誌も二号出した。クロポトキン思想のわかりやすい紹介を狙ったものなんだ。そしたら警察がうるさくなって、 だからとつぜんのように今の世田谷区の赤堤に越した。」と移転の原因を語る。「渓文社の仕事はそれからといっていいだろう。赤堤に移ってからは精神的に、貧乏の中でやったよ」と赤堤時代が本格的な渓文社の活動時期としている。〈ききがき『渓文社』より〉

権力や支配のない社会をめざすアナキズムにも考え方がいくつかある。アナキズム運動史を著している小松隆二は「アナキズムにあっては人間をすべての発想・行動の根幹にすえることから出発する…」と語っている。また三三年には「なにものにも従属しない創造的な文学運動」を主張した解放文化連盟が発足、恭次郎、岡本、小野、秋山らが参加。小松は「運動全体では沈滞しつつあったが文学では活気をおびていた」とも述べている。渓文社のたちあげと出版活動はその一翼を担っていた。

渓文社の刊行物の幾つかを複写と原本で確認することができた。その刊行データを記しておく。

『叛く』竹内てるよ詩集 活版刷り 
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著者 竹内てるよ 昭和六年四月一日印刷 昭和六年四月一〇日発行 定価五〇銭 東京府下六郷町高畑三〇七 発行謙印刷者 神谷暢 発行所 渓文社印刷所出版部 自由叢書第一編

 題字は高村光太郎の墨書。高村はすでに著名な芸術家であり詩人であったが、一九二五年、草野心平が訪問し交友が始まりそれを機に他の若い詩人たちとも交流をするようになった。

この年、『叛く』の奥付で確認できるが四月までは渓文社は六郷の住所。赤堤に移転した正確な月日は不明である。なぜ赤堤なのか。前述の対談で「警察がうるさくなって」という理由もあり移転は迫られていた、六郷は長屋であり人の出入りはすぐ判ってしまう。竹内や神谷自身の病状もあり少しでも環境がいいところを探したのであろう。赤堤の借家はもともと病気療養のために建てられた畑の中の一軒家である。空いてからも敬遠され、借りてがなかなか決まらなかったのだろうか。また数年前に小田急線が開通しているとはいえ冒頭の竹内の回想を読む限りではまだまだ不便な地域である。したがって家賃もそれほど高くはなく借りられたのではないか。竹内は神谷との「共同生活」の前は代々木上原辺りに住んでいたというので小田急線や世田谷への土地鑑も多少あったのだろう。

萩原恭次郎詩集『断片』活版刷り

昭和六年一〇月六日 印刷 昭和六年一〇月一〇日発行

発行謙印刷者 神谷暢 東京府下松澤村赤堤一八六 定価五十銭

 前出の神谷の『断片』刊行の回想では高村に表紙カットの相談をしたことを述べている。

「ボルトのカットを画いた時は、高村光太郎さんの所ヘ持っていって、見てもらった。光太郎さんは、時計屋が修繕の時に使うような片眼で見る小さい筒のような眼鏡でそれをみ終ってから《まあ、いいでしょう》と言われた。心細いが、やや安心もして、それを使うことにした」

『第二曙の手紙』竹内てるよ詩文集 活版刷り 

題字 高村光太郎 昭和七年四月六日印刷 昭和七年四月一〇日発行 東京府下松澤村赤堤一八六番地 印刷人発行人 神谷暢 発行所渓文社 定価五十銭

三三年の初めか、神谷と竹内は住まいと渓文社を分離させ、北沢に一軒家を借りている。しかし若い同志たちの無軌道な振舞いで、維持することは困難になり再び、赤堤に渓文社を戻している。北沢時代は一年も続いていない。

 また東京の区制が拡大し世田谷区が誕生した時期にあたり、渓文社刊行物の奥付もそれにつれて変更されて行く。

『花とまごころ』 竹内てるよ詩集 活版刷り 

定価五十銭 昭和八年一月二五日印刷 昭和八年二月一日発行 発行謙印刷者 神谷 暢 東京市世田谷区北澤三ノ一〇二六 発行所 渓文社

『葡萄』竹内てるよ作品集 謄写刷り 
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昭和九年二月三〇日印刷 昭和九年三月一日発行 東京市世田谷区赤堤町一ノ六六

渓文社の刊行書に掲載された広告、著作者関連の文献、秋山清の調査で渓文社刊や発売元となっているものを次にあげる。

中浜哲詩集『黒パン党宣言』謄写刷り。発売禁止処分。         

 中浜哲は当時ギロチン社事件の首謀者として有名であった。詩二篇〈黒パン党戦言〉〈黒表〉を収めている。渓文社に協力していた西山勇太郎が制作、刊行した。秋山がかつて所蔵し回想で内容に触れている。タイトルは戦を宣に変えている。

 中浜の本名は富岡誓。福岡県東郷村、現北九州市門司区生まれ。二二年に「ギロチン社」を古田大次郎らとたちあげる。大杉栄の虐殺後、後に広く知られる「杉よ ! 眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。二四年三月、恐喝犯として逮捕され、大阪控訴院で二六年三月死刑判決となり四月に絞首される。中浜は処刑されるまで大阪刑務所北区支所の独房で詩や回想記の執筆を進め、著作集が冊子として二五年一二月に刊行される。『原始』『文芸戦線』『解放』誌やアナキズム運動各誌紙に詩や評論が掲載される。

北達夫詩集『同志に送る歌』活版刷り

昭和七年十二月廿五日印刷 昭和七年十二月三十日発行 価十五銭     著者 北達夫 発行兼印刷人 神谷暢                  発行所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 渓文社                  

 北は本名、宮島義勇、一九〇九年茨城県菅野村生まれ、学生運動からアナキズム系の運動に参加。神谷、岡本らと交流、三〇年、アナキスト詩誌『死の旗』同人となる。詩集は神谷に勧められて刊行。                          

一九三一年度『アナーキズム文献出版年報』発禁 詳細不明                   

マラテスタ『サンジカリズム論』 (渓文社文庫)詳細不明                 

マラテスタは著名なイタリアのアナキストにして理論家。

竹内てるよ童話集『大きくなったら』渓文社満二ケ年紀念出版 活版刷り   昭和七年 十一月二十日印刷 昭和七年十一月廿五日発行 東京市世田谷区赤堤一ノ一八六 発行者印刷者 神谷暢                        

堀江末男小説集『日記』活版刷り

昭和九年十二月十日印刷 昭和九年十二月廿日発行 定価五十銭 発行者神谷暢 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 印刷者 吉本孝一 渓星社印刷所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八三 発行所 渓文社 東京市市世田谷区赤堤町一ノ一八六                    

堀江末男は一九一〇年大阪府寝屋川村生まれ、一九二八年京阪電気鉄道に勤務、三三年、『順風』(小野十三郎らの)同人となる。戦後は『コスモス』に参加。詩集『苦悩』『おかん』がある。奥付の中で神谷以外の印刷者の名が記されている。吉本孝一である。住所も三番地異なり渓星社という名も印刷所に付されている。吉本は群馬出身のアナキスト系詩人で萩原恭次郎と交流がありそのつてで一九三三年秋、渓文社で働き始めた。

フランシスコ・フェレル『近代学校・その起源と理想』(発禁) 渡部栄介訳   詳細不明                                 

フェレルはスペインの教育運動家、アナキスト。一九〇九年、政府のモロッコ派兵反対闘争に参加、逮捕され世論の反対にもかかわらず一〇月に銃殺される。子どもの自由意志を尊重する教育理論は自由学校につながる。

五 草野心平と渓文社                   

 草野心平は中国の大学に学び在学中から同人詩誌『銅鑼』を刊行した。草野と交友があった詩人たちが参加。日本に戻ってからも同誌の刊行と詩作を継続していた。その頃に草野は竹内と出会っている。「一九二七年一月、赤羽駅から新潟行き列車に乗るのを木村てるよが見送る(『草野心平全集』年譜)」しかしこの年に関しては草野の記憶違いと思われる。草野の回想では「…新しく同人になった木村てるよが喀血したと神谷からきいていたので、まず彼女を見舞ってから、東京をしばらく離れようと思った。幡ヶ谷あたりだった木村てるよの間借り部屋はわかったが、彼女はいなかった。机の上には長唄でもあるらしい台本があり、その写しが並んでいた。当時彼女は一枚五厘位で、その筆耕をやっていたらしい。帰りの道で彼女にあった。訳を話すと彼女は赤羽までおくるという。断ったがきかないので彼女の言葉に従った。」と述べている。(『わが青春の記』)。竹内は三四年発行の『宮澤賢治追悼』誌に〈午後八時半の透明〉という追悼文を執筆。その文中で「佐渡へ立つといふ夜のステーションの汽車をまつあひだ…」と草野から賢治の芸術の世界の話を聞いたというエピソードを記しているが何年かは記されていない。草野の年譜には「新潟行き」がもう一つある。「一九二八年五月、再び新潟へ、寒河江真之介の〈カフェ・ロオランサン〉の食客となる」とある。『銅鑼』誌一五号(二八年五月刊)には「木村(竹内)てる代、坂本七郎が同人に加わると記載」。既述したが、竹内は『詩神』に初めて作品が掲載さたのが二八年であり、そこから詩人たちと交友が始まる。それ以前の二七年一月に草野と会うというのはおかしい。草野が二八年と混同しているのではないか。

 二八年、草野は坂本七郎のすすめで前橋市に転居。一二月になり個人詩誌『学校』を創刊。二九年、『学校』は二月から続けて刊行され月刊ペースである。竹内は五号まで毎号寄稿。五月になり草野は竹内の詩を集め『叛く』と題し、自らのガリきりで銅鑼社(上州前橋神明町六九)から、謄写印刷の百部限定で刊行する。印刷人は坂本七郎。表紙は毛筆で書き、「製本は女房と二人で」と回想。そして後に第一書房から出版された詩集で竹内が有名になるが、その機縁が『叛く』であったことを聞き「私はうれしかった。」と語っている。(『火の車』〈前橋時代〉)。

 草野は自らも貧乏ではあったが竹内への支援を惜しまなかった。神谷との交友は元々ありそれが渓文社との深いつながりになる。自著を刊行するだけではなく、すでに銅鑼社の活動を止めたという理由もあるが同社刊の詩集も渓文社から再版している。草野が関わる刊行書を記す。

草野心平詩集『明日は天気だ』謄写刷り

草野は東京に戻り焼き鳥屋をしながら詩作を続けた。そして屋台を引きながら突然に詩集刊行を決意する。それが三一年九月刊の『明日は天気だ』。

「…八月二六日の晩。自分のやってる焼鳥屋の屋台で突然本を出すことに決めた。附属品や自転車を買いたいためである。…一九三一年九月一日。曇後晴。」と刊行が突発であったことを『明日は天気だ』の後記から回想している。謄写版刷り、百部発行。制作過程も、普通の詩集としてなら約二百頁分位を朝からネジリ鉢巻きで原紙を切り、夜は刷り綴じと一日でやってのけたと語っている。『わが青春の記』。草野は中国での『銅鑼』刊行以前から謄写刷りで私家版の詩集を出していた。前橋でも『学校』誌は草野が原紙をきり謄写刷りである。したがって自分の詩集のためならば一日で作業を終えてしまうのは造作もなかったであろう。渓文社は制作では関与していないようである。草野は自身で謄写版を用意できたしガリきりの技術は慣れていたからであろう。つまり渓文社の連絡先を草野は必要としていたということである。

草野心平訳『サッコ・ヴァンゼッチの手紙』活版刷り   昭和七年九月一日印刷 昭和七年九月五日発行 発行者 東京市外松澤村赤堤一八六 神谷暢 発行所 東京市外松澤村赤堤一八六 渓文社 定価十五銭送料二銭                              

サッコとヴァンゼッティはイタリア系アメリカ人。二七年八月、全世界の釈放運動にも関わらずフレームアップ事件で処刑された。東京においても同月釈放のための集会がもたれアメリカ大使館への抗議闘争となり恭次郎らが検束されている。七七年に時の州知事が無罪宣言をするが、それを受け草野は回想、詩にしている。                               

坂本遼詩集『たんぽぽ』活版刷り

(銅鑼社刊の再版) 昭和七年 発行 府下松澤村赤堤一八六                 

元本の銅鑼社版を草野が回想。元本は昭和二年九月の発行。著作者、坂本遼として兵庫県加東郡上東条村横谷の住所、発行所は土方定一の住所を銅鑼社としている。草野の序詩と跋、原理充雄も「坂本遼の手紙」を序として執筆している。                        

三野混沌詩集『ここの主人は誰なのか解らない』

原本は確認できていないが、草野と三野とのむすびつきで刊行したと推測。三野混沌は本名吉野義也、一八九四年福島県平窪村生まれ。詩を書き始めて山村暮鳥を知る。一九一八年、早大英文科に入学するも翌年開墾生活に戻る。一九二四年、草野を知り、『銅鑼』『学校』などの同人となる。

『宮沢賢治追悼』(次郎社刊) 活版刷り

昭和九年一月二十五日印刷 昭和九年一月二十八日発行 定価五十銭 送料二銭 編集兼発行人 東京市渋谷区大山町二十三番地 草野心平 印刷人 東京市芝区浜松町一丁目十五番地 鷲見知枝麿 発行所 次郎社 東京市本郷区向ヶ丘弥生アパート内 発売所 東京市世田ケ谷区松沢村赤堤一八六番地 渓文社 振替東京三六五九〇番 B五判紙装・グラビア肖像写真一葉・目次二頁                         

発行所は当時の逸見猶吉の住所。執筆は旧銅鑼社同人が中心。神谷暢「光の書」、竹内てるよ「午後八時半の透明」を収載。渓文社の住所表記は旧に世田ケ谷区を付しただけの誤記であろう。               
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# by futei8 | 2011-06-07 08:19

萩原恭次郎3

六 坂本七郎                              二人を支えた詩人で坂本を忘れることはできない。彼もまた詩集を残さなかった。しかし既出の個人詩誌『第二』が各地の文学館に所蔵され読むことができる。一九二九年当時、八王子に住んで居た坂本は六郷の竹内と神谷の家をしばしば訪ねた。坂本は『弾道』二号に竹内を主題にした「第三夕暮の詩」を寄稿している。  

〈第三夕暮の詩〉抄

掲示は白く分倍河原/南部鉄道へ乗換駅/この武蔵野西北隅の/雲に濡れる一小駅に/汽車を待つのはおれ一人か/冷いベンチに身を凍らせて/目を落とす、眼前を走る鉄のレエル──/荒涼の涯の川崎市外/煙に澱む六郷川/そこに友がいる、病み闘う/この寒風の凛烈にも/挫けぬ、氷河の床に燃ゆる人……………

『第二』は謄写刷りで六〇部前後の印刷、二九年に九号まで発行していた。坂本は技術者であり放浪の人であった。 坂本の「夕暮の詩」には、第一から第四まであり、第一は八王子の織物女工たちを、第二は工場法実施を、第四は十六歳の電話交換手をテーマにしている。坂本は恭次郎とも親しかった。〈「思い出断続」より〉 「………その年の大震災後、駒込千駄木蓬莱町の大和館で、はじめてわたしは萩原恭次郎に会ったのだが、そのときは、お互いに、ニラミ合っただけで、ろくに口はきかなかった。」

 編集記を読んで行くと、二九年の坂本七郎の奮闘が浮かび上がる。

「第五号の詩をガリ板で二十頁分書き終へたのは土曜日の夕刻であった。すでに暗くなった窓の外に眼をやって、僕はくたびれた手を休めた。今夜は尾形君の詩集の会があるのだと知っていても一銭も持っていない僕はどうしやうもなかった。…午後一時から七時までぶっつづけでガリガリやった。そしてやっと終へた。何よりも理屈よりも僕は今日の自分を信じたい。六月八日」

坂本が如何なる事情で、この時期経済的余裕がなかったのかは不明である。技術者として八王子で働いていれば、最低限の収入はあったのだろうが、放浪の人でありそれまでの生活での借りもあったのかもしれない。謄写刷りとはいえ『第二』を毎号六〇部刷り郵送していたが、多くの仲間から購読料を得るのは困難であったろう。また神谷たちへも支援していたのかもしれない。いずれにしろ電車を乗り継ぎ、出版会に参加する余裕はなかったのは事実である。参加できない寂しさをガリ版に向けていた。また七号の後記には「『第二』六号の、竹内、神谷両君の作品には誰れも打たれました。岡本潤君からは直ぐ手紙が来ました。」と二人の六郷での生活とお互いを描写した詩に触れている。そして竹内の「午後から発熱して分からなくなるから、熱の出て来ない内に急いでこれを書いた」という七号の詩にも言及している。

 続いて、尾崎喜八が竹内の詩の批評を書き、自著を出版し寄付するということも記されている。渓文社の二人への応援に満ちている。秋山清はこのようなヒューマニズムの内面にある「思想的弱さ」を批判しているが、この時期に凝縮した相互扶助的な精神はそれぞれの生きる糧となっていたことも確かと思われる。

七 詩集『断片』

 再び、神谷の回想に戻り渓文社の一室。

 恭次郎は「これはうまいんだ!」と言いながら、いろり火で生がを焼き味噌をつけてぼりぼり食べている。神谷は「他に何も食べるものがなかったのだから、これをたべるより仕方がなかったのだが…」と記す。恭次郎は「断片」の原稿を示しながら詩集の体裁に関し最低限の希望を話す。「出来上がりの厚みが出るように」と。

 材料費は恭次郎が先においていったが、制作にあたり神谷にとって余分な出費はおさえなければならなかった。秋山の回想によると赤堤の渓文社を一度訪ねた際に部屋に活字が広げてあったとある。しかしこの時期理由は不明だがそれら活字、印刷機等、印刷に必要な一切のものは仲間である淀橋(現在の鳴子坂上辺り)の西山勇太郎のところに置いてあったという。そのため赤堤から淀橋通いがはじまる。「それこそ、雨の日も風の日も、通いつづけた。日日の食費にも事欠くような時であったので、毎日通う十銭の電車賃も心もとないとあって、歩いて通った。………」と語る。

西山は一九〇七年に東京で生まれ、小学校卒業後に木村鉄工所に見習工として入る。病気になり回復後は事務員として住み込んでいた。二四年、辻潤の訳でシュティルナーの〈唯一者〉の思想に触れ、放浪の人、辻潤の滞在先として便宜をはかっている。三一年、『叛く』により竹内てるよ、神谷暢を知り渓文社の活動に協力する。三四年、雑誌『無風帯』を刊行、辻、竹内、岡本潤らが執筆。辻潤追悼を『無風帯ニュース』で企画。

西山は生活記録の中で「一九三一年の初夏、わたしの薄ぐらい埃とごみの部屋の中で、神谷暢君が活字を拾って組んで…」(三八年の項『低人雑記』三九年発行、無風帯社刊)と回想。『神谷は恭次郎の打ち合わせを秋としているが、『断片』の一〇月刊から逆算しても、打ち合わせの季節は西山の初夏のほうが正しいのではないか。西山の回想は七年後、神谷の回想は三〇年余り後である。

 万年床の敷いてある暗い部屋で昼も電灯をつけて仕事をしなければならなかったと神谷は描写している。「活字をひろって、組んで、それを小さな手きんで一頁ずつ印刷していった。厚ぼったい、色のきたないちけん(地券)紙に刷った」

しかし刷りあがった後、製本段階でうまく行かないことが判明する。製本屋に頼んだが、「出来上ってみると、ゴワゴワしていて、開いて見るのに、見にくいものになってしまった」とある。神谷は開いて見られるように糸かがりの製本を頼むつもりであった。しかし小さな製本屋はそれが出来ず上から針金どめにしてしまったという。手きんで一頁ずつ刷ったのが失敗であった。印刷だけの技術は習得したのかもしれないが、書物を制作する様々な過程を学んでいなかったのではないか。三五年後の回想でも詳しく記しているから、相当に心残りであったのだろう。

詩集『断片』が手元にある。

 確かに現実の詩集『断片』を手にして頁をめくるのは苦労である。本文紙が固い紙なので両手を使い、普通より少し力をいれてようやく半開きという始末である。完全に折り曲げることは不可能ではないが繰り返すと痛んでしまう。しかし固い紙だから保存には耐えたのではないだろうか、背が痛む以外は頑丈な詩集である。「いろいろの不満もあったとはいえ、出来上がったときは、何んとも言えぬうれしさだった。真白い表紙の汚れるのを恐れながら、梱包して、前橋ヘ送った。折返し、恭次郎君から、よろこびの手紙を受取って、安心した。…甲州猿橋にて。六六年九月」と神谷は回想をしめくくっている。

 恭次郎も頁を開くのに困難を強いる詩集は内容に合っていると思ったのではないか。タイトルも最初は『鉄の箒』とつけたかったようであるから、頁を繰り読むという行為自体も意識化する固い紙はよかったのではないか。

『断片』への書評を萩原朔太郎が執筆している、それは、より内奥な意志をもつところの、静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、そしてその怒を書くところの抒情詩だ、と言い切り、僕は所謂アナアキストではないけれども、詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、全部残りなく同感できる、と絶賛である。また萩原恭次郎君と僕とは、偶然にも同じ上州の地に生れ、しかもまた同じ前橋の町に生れた、と故郷の同一性から語り、『死刑宣告』を評価した後、「今度の『断片』を読んでもまた、同じく或る点で共通を発見し、芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。最後に再度繰返して、僕は詩集『断片』の価値を裏書きしておく。…」と支持し全面的評価である。(〈詩集『断片』を評す〉『詩と人生』一九三二年三月号) 

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八 再びの赤堤

 一九三一年、渓文社の赤堤移転の年に始まった日本国家による中国への侵略も本格的にすすみ、三〇年代半ばになると戦時国家の状況下でアナキストたちにも治安維持法弾圧が続いていた。詩人たちは自らの思想を自由に表現できなくなり、ことばの自由は奪われ詩誌刊行は不可能となった。渓文社の活動も一九三四年に停止する。そのような状況下、第一書房の長谷川巳之吉が竹内のヒューマニズムに訴えた詩を中心に編集、順次刊行し好評を得た。『静かなる愛』四〇年、『悲哀あるときに』四〇年、『生命の歌(詩文集)』四一年『美しき朝』四三年と続いた。四〇年代以降は病状も回復傾向にあり、執筆活動もさらに盛んになり他の出版社からも刊行が続いた。それにつれて竹内の生活にも変化が起きた。詩集の刊行が続き一定の部数が売れると竹内は借家だった家を購入する。そして赤堤の地も変わりつつあった。「このあたりが町になつた。…庭は、私のたんせいで作つた。…植木を一本かうのに、私の詩の稿料であてたというのである。柿を一本買うのにあの詩、椿を一本買つたのはあの童話。というように、ねていて何の楽しみがなかつた私は、そうした収入で庭木をかい集めていた。」




そして故郷前橋に戻り生活も落ち着いた恭次郎は戦争国家を高揚させる詩を発表、かつての仲間たちを驚かす。しかしその広がった波紋を知ることなくしばらくして病死、数え年四〇歳、三八年のことであった。数年後、仲間の詩人たちは沈黙するか、恭次郎のように国家の側に身を寄せた詩を作る。高村光太郎もそうであり、竹内もその一人であった。恭次郎の追悼会は前橋と東京で開かれている。出席者の名が回想されているが、そこには竹内の名は無かった。

しかし前出の戦時下に第一書房から刊行された詩集に「木いちご」という詩が収載されている。初出の記録も解説もないが、恭次郎との赤堤での出会いを回想、追悼していることに間違いはない。

赤堤を竹内と恭次郎が連れ立って歩いている。「みどりいろの電車」とは世田谷線の電車ではないだろうか。「豪徳寺」駅で待ち合わせとしても世田谷線は横切ったのであろう。三一年、恭次郎は二度、赤堤の渓文社を訪れている。二度目の渓文社訪問では竹内が具合がよく、恭次郎を駅の方まで迎えに行けたのだろうか。いずれにしろ「駅」と渓文社をつなぐ道筋の情景を詩っているのは間違いない。木いちごに恭次郎への追憶を込めた竹内の心情はいかなるものであったか。子供と別れ病気に苦しんだ孤独の時代の後、アナキスト系詩人たちとの交友の時代を思い起こしていたのか、日本という国家の変貌か、あるいは竹内を含めての詩人たちの変貌をも恭次郎の死と重ねて思い返していたのか。

詩〈木いちご〉               竹内てるよ

雨にぬれたみどりいろの電車は/おもちやのようではないかと笑つて/並木みちの下かげに/私が木いちごのみをひろつたとき/よわいからだで/洗わない木のみをたべていゝかと/やさしく近よつてたずねたる人/一生を四十年にちゞめて/嘗て 畏敬せられ 又親しまれつゝ/赤城山のみえる町にて かの人は死んだ/木いちごの白い花が咲けば そのとき/木いちごのオレンヂいろの實がなれば/また そのとき/亡き人は/かく たくましき一生の中なるやさしさを/ほのかに 私の胸につたえて来て/木いちごの舌にころがす ほの甘きまで/一つの悲哀 なお更に/尊く切なかりしかの生涯の思い出とした


二〇〇四年六月、赤堤に移って半年がたった。あの渓文社の時代から七〇年、電車はみどり色ではなく、木いちごも見ることはなく、渓文社に拠った詩人たちもすでにいない。二人のすまいと渓文社はここら辺であったのかと住宅地に変貌した街を通るたびに思う。答えられる「場所」も「人」も不在である。時も過ぎ去ったが渓文社があの時代に刊行した書物で詩人たちの意思だけは残されている。今、この国の振る舞いは七〇年前と同じになってきた。国家が強権を行使するとき、どのような生き方があるのか。残された書物から詩人たちが国家に抗した時代の生き方を読むことは可能である。

参考文献 (本文中に記していない文献)『萩原恭次郎全集』静地社刊、一九八〇年・八二年発行。『草野心平全集』筑摩書房刊、一九七八年─八四年発行。金井新作、三野混沌、堀江末男に関しては『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版刊、二〇〇四年発行を参照。吉本孝一に関しては『吉本孝一詩集』(一九九一年一二月発行)寺島珠雄編「吉本孝一詩集刊行会」刊を参照 。
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# by futei8 | 2011-06-07 07:20
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廿四日 晴れ

堺・増田の両氏と眞ア坊へ発信。

堺さんには在米の弟に記念品を送って貰う事を頼む。

紙数百四十六枚の判決書が来た。在米の同志に贈ろうと思う。

吉川さんが『酔古堂剣掃』を差入れて下すった。

針小棒大的な判決書を読んだので厭な気持ちになった。今日は筆を持つ気にならない。

吉川さんから葉書が来る。

 夜磯部・花井・今村・平出の四弁護士、吉川・南・加山・富山の数氏へ手紙や葉書をかく。

 管野須賀子処刑
1911年月25日午前8時27分

獄中手記
死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず

自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものこれ                             

 明治四十四年一月十八日

                  須賀子

                   (於東京監獄女監)

明治四十四年一月十八日 曇

 死刑は元より覚悟の私、只廿五人の相被告中幾人を助け得られ様かと、夫のみ日夜案じ暮した体を、檻車に運ばれたのは正午前、…………

 時は来た。…………

 幾つとなく上る石段と息苦しさと、…………やや落着いて相被告はと見ると、何れも不安の念を眉字に見せて、相見て微笑するさえ憚かる如く、いと静粛に控えて居る。

…………

 読む程に聞く程に、無罪と信じて居た者まで、強いて73條に結びつけ様とする、無法極まる牽強付会(こじつけ)が益々甚だしく成って来るので、私の不安は海嘯の様に刻々に胸の内に広がって行くのであったが、夫れでも刑の適用に進むまでハ、若しやに惹かされて一人でも、成る可く軽く済みます様にと、夫ばかり祈って居たが、噫、終に…………万事休す牟。新田の11年、新村善兵衛の8年を除く他の廿四人は凡て悉く之れ死刑!

 実は斯殷うも有うかと最初から思わないでは無かったが、公判の調べ方が、思いの外行届いて居ったので…………今此の判決を聞くと同時に、余りの意外と憤懣の激情に、私の満身の血は一時に嚇と火の様に燃えた。弱い肉はブルブルと慄えた。

 噫、気の毒なる友よ。同志よ。彼等の大半は私共五、六人の為に、此不幸な巻添にせられたのである。私達と交際して居ったが為に、此驚く可き犠牲に供されたのである。無政府主義者であったが為に、圖らず死の淵に投込まれたのである。

 噫。気の毒なる友よ。同志よ。

 ………… 

 噫。神聖なる裁判よ。公平なる裁判よ。日本政府よ。東洋の文明国よ。

 行れ、縦ままの暴虐を。為せ、無法なる残虐を。

 殷鑑遠からず赤旗事件にあり。此暴横・無法なる裁判の結果    は果して如何?

 記憶せよ、我同志!、世界の同志!!

 …………「驚ろいた無法な裁判だ」と、独り繰返す外は無かった。

 …………さらば、廿五人の人々よ。さらば廿五人の犠牲者よ。さらば!。

「皆さん左様なら」

私は僅かこれ丈けを言い得た。

「左様なら…………」

「左様なら…………」

太い声は私の背に返された。私が法廷を[五、六歩出ると──抹消]出たあとで、

「万歳──」

と叫ぶ──抹消]叫ぶ声が聞えた。多分熱烈な主義者が、無政府党万歳を叫んで居るので有う。第一の石段を上る時、

「管野さん」

と声高に呼んだ者もあった。

…………

無法な裁判!

…………

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前列の仮監の小窓から、武田九平君が充血した顔を出して、

「左様なら」

と叫ぶ。私も「左様なら」と答える。又何処からか「左様なら」という声が聞える。此短かい言葉の中に千万無量の思いが籠って居るのである。

 檻車は夕日を斜めに受けて永久に踏む事の無い都の町を市ヶ谷へ走った。

…………

十九日 曇

 無法な裁判を憤りながらも数日来の気労れが出たのか、昨夜は宵からグッスリ寝込んだので、曇天にも拘らず今日は心地がすがすがしい。

…………

 夕方沼波教誨師が見える。…………絶対に権威を認めない無政府主義者が、死と当面したからと言って、遽かに弥陀という一の権威に縋って、被めて安心を得るというのは[真の無政府主義者として──抹消]些か滑稽に感じられる。

……………………

廿日 曇

 松の梢も檜葉の枯枝もたわわに雪が降り積って、夜の内に世は銀世界となって居る。…………

★塀を隔てた男監の相被告等は、今、何事を考えて居るで有う? この雪を冷たい三尺の鉄窓に眺めて、如何なる感想に耽って居るで有う? 

……………………

両三日前堺さんから来た葉書に

四日出の御手紙拝見、獄中日記ハ卒直の上にも卒直、大胆の上にも大胆に書き給えかし切に望む。

……………………

<英語の勉強の話>

……………………

 この日記は堺さんに言われるまでも無い。一切の虚偽と虚飾を斥けて赤裸々に管野須賀子を書くのである。

★廿一日 晴れ

応挙の筆になった様な松の雪に朝日が輝いて得も言われぬ趣きがある。

<幸徳の母の死に関する記述>

 風邪の気味で頭の心が痛いけど入浴する。入浴は獄生活中の楽しみの一つである。面会・来信・入浴──みよりの無い私の様な孤独の者ハ、面会も来信も、少ないので、五日目毎の入浴が何よりの楽しみである。

 蒼々と晴れた空から鉄窓を斜めに暖かそうな日光がさし込んで居る。湯上りののびのびとした心地で机の前に座った[心地・抹消]時は何とも言われない快感を覚えた。このまま体がとけて了って、永久の眠りに入る事が出来たらどんなに幸福で有うと考える。



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<吉川さんの手紙の件>

…政府の迫害を恐れて一身を安全の地位に置かん為め弊履の如く主義を擲った某某等! 噫、数奇なるは運命哉。弱きは人の心なる哉。去る者をして去らしめよ。逝く者をして逝かしめよ。大木一たび凋落して初めて新芽生ずるのである。思想界の春日──先覚者を以て自ら任ずる我々は、秋多の過去を顧みるの必要は少しも無い。前途、只前途に向って、希望の光明に向って突進すればよいのである。

 社会の同志に対する其筋の警戒は益々きびしい様子である。今回の驚くべき無法なる裁判の結果から考えても、政府は今回の事件を好機として、極端なる強圧手段を執らうとして居るに相違ない。迫害せよ。迫害せよ。圧力に反抗力の相伴うという原則を知らないか。迫害せよ。思い切って迫害せよ。

旧思想と新思想、帝国主義と無政府主義! 

まあ必死と蒲鉾板で隅田川の流れを止めて見るが好い。

<沼波教誨師の訪問>

 今回の事件は無政府主義者の陰謀というよりも、寧ろ検事の手によって作られた陰謀という方が適当である。公判廷にあらわれた七十三條の内容は、真相は驚くばかり馬鹿気たもので、其外観と実質の伴わない事、譬えば軽焼前餅か三問文士の小説見た様なものであった。検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳・宮下・新村・古河・私、と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を、強いて此事件に結びつけて了ったのである。

 此事件は無政府主義者の陰謀也、何某は無政府主義者也、若しくは何某は無政府主義者の友人也、故に何某は此陰謀に加担せりという、誤った、無法極まる三段論法から出発して検挙に着手し、功名・手柄を争って[苦心・惨憺の 抹消]、一人でも多くの被告を出そうと苦心・惨抹の結果は終に、詐欺・ペテン・脅迫、甚だしきに至っては昔の拷問にも比しいウッツ責同様の悪辣極まる手段をとって、無政府主義者ならぬ世間一般の人達でも、少しく新知識ある者が、政治に不満でもある場合には、平気で口にして居る様な只一場の座談を嗅ぎ出し[て 抹消]夫をさもさも深い意味でもあるかの如く総て此事件に結びつけて了ったのである。

 仮に百歩・千歩を譲って、夫等の[陰謀 抹消]座談を一つの陰謀と見做した所で、七十三條とは元より何等の交渉も無い。内乱罪に問わるべきものである。夫を検事や予審判事が強いて七十三條に結びつけんが為に、己れ先づ無政府主義者の位置に立ってさまざまの質問を被告に仕かけ、結局無政府主義者の理想──単に理想である──其理想は絶対の自由・平等にある事故、自然皇室をも認めないという結論に達するやも、否、達せしめるや、直ちに其法論を取って以て調書に記し、夫等の理論や理想と直接に何等の交渉もない今回の事件に結びつけて、強いて罪なき者を陥れて了ったのである。

 考えれば考える程、私は癪に障って仕方がない。法廷に夫等の事実が赤裸々に暴露されて居るにも拘らず、あの無法極まる判決を下した事を思うと、私は実に切歯せずには居られない。

 憐れむべき裁判官よ。汝等は己れの地位を保たんが為に、単に己れの地位を保たんが為に[不法と知りつつ、無法と知りつつ 抹消]己の地位を安全ならしめんが為に[心にも無い判決を、 抹消]不法と知りつつ無法と知りつつ、心にも無い判決を下すの止むを得なかったので有う。憐れむべき裁判官よ。政府の奴隷よ。私は汝等を憤るよりも、寧ろ汝等を憐んでやるのである。

 身は鉄窓に繋がれても、自由の思想界に翼を拡げて、何者の束縛をも干渉をも受けない我々の眼に映ずる汝等は、実に憐れむべき人間である。人と生れて人たる価値の無い憐れむべき[動物 末梢]人間である。自由なき百年の奴隷的生涯が果して幾何の価値があるか? 憐れむべき奴隷よ。憐れむべき裁判官よ。

 午後四時頃面会に連れて行かれる。堺さん、大杉夫婦、吉川さんの四人。

 面会の前に典獄から公判に就いての所感を語ってはいけないと注意された。此無法な裁判の真相が万一洩れて、同志の憤怒を買う様な事があってはという恐れの為に、特に政府からの注意があったので有う。

 赤旗事件の公判の時、控訴院の三号法廷に相並んだ以来の堺さんと大杉さん、四年以前も今日も見たところ少しも変りの無い元気な顔色は嬉しかった。彼れ一句、最初から涙の浮んで居た人人の眼を私は成るべく避ける様にして、つとめて笑いもし語りもしたが、終に最後の握手に至って、わけても保子さんとの握手に至って、私の堰き止めて居た涙の堤は、切れて了った。泣き伏した保子さんと私の手は暫く放れ得なかった。ああ懐かしい友よ。同志よ。

「意外な判決で……」というと、堺さんは沈痛な声で「[アナタや 末梢]幸徳やアナタには死んで貰おうと思っ[た 末梢]て居たのですが……」多くを語らない中に無量の感慨が溢れて居た。

 <寒村の件>

……然し世は塞翁の馬の何が幸いになる事やら、彼は私と別れて居たが為に、今日、無事に学びも遊びも出来るのである。万一私と縁を絶って居なかったら、恐らくは[今頃は 末梢]同じ絞首台に迎えられるの運命に陥って居た事で有う。

 私は衷心から前途多望な彼の為めに健康を祈り、且つ彼の自重自愛せん事を願う。

大杉夫婦に手紙、堺・吉川の両氏に葉書を書く。




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廿二日 晴れ

 昨夜は入監以来始めての厭な心地であった。最後の面会という一場の悲劇が、私の[鋭い 末梢]神経を非常に刺戟したからである。去年6月2日に始めて事件の暴露を知って以来、相当に[精神 末梢]修養をしたつもりで居るのに、仮令一晩でもあんな妙な名状しがたい感情に支配せられるとは、私も随分詰らない人間だ。我乍ら少々愛想がつきる。斯様な意気地のない事で何うなる。

…………

 然し今日は誠に心地がよい。昨夜の感情は夜と共に葬り去られて、何故あんな気持になったろうと不思議に思われる程である。

……

夕刻、平出弁護士と堺さんから来信。

…………

廿三日 晴れ

<妹の墓の件>

…これとても死者の骸が煙と成り、又それそれ分解してもとの原子に帰った後に、霊魂独り止まって香華や供物を喜ぼうなどとは、元より思っても居ないのだから、考えて見れば随分馬鹿馬鹿しい話であるが、そこが多年の習慣の惰性とでもいうのか、只自分の心遣りの為にして居たのであった。

………

墓などはどうでもよい、焼いて粉にして吹き飛ばすなり、品川沖へ投げ込むなり、どうされてもよいのであるが、然しまさかそんな訳にも行くまいから同じ[埋められるの 末梢]形を残すのなら懐かしい妹の隣へ葬られたいのは山々であるが……

<武富検事の件>

……………

 田中教務所長から相被告の死刑囚が半数以上助けられたという話を聞く。

<堺のまあさんからの便りの件>

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# by futei8 | 2011-01-25 18:34

11人の処刑

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『救援』紙連載

2010年12月号  32回目

大審院法廷
 
 百年前の一九一〇年一二月一〇日、管野須賀子、幸徳秋水たち合わせて二六名に対して刑法七三条、爆発物取締罰則の事件を審理する大審院、鶴丈一郎の特別法廷が開かれた。
一般傍聴人を入廷させたが開廷後すぐに傍聴禁止とし退廷させた。しかし政府関係者は傍聴し、後の法廷では選任がされていない弁護士も傍聴できた。

公判審理
 まず松室致検事総長による冒頭陳述、それに続き被告とされた宮下太吉、新村忠雄への訊問が行われた。 被告人の名と部分記述の訊問時間は弁護人平出修の「大逆事件特別法廷覚書」(『定本平出修集』収録)より引用。日付が記されず被告の名が続く場合もあるが他の資料と対照し日付を記す。

一二日は管野、古河力作(午前一一時)、新田融(一一時二二分)、新村善兵衛(一一時四〇分より一二時五分マデ)、幸徳(一時二十分ヨリ二時二十分)被告人尋問が続いた。

(注、法廷覚書では一一日と記されている)。

一三日、森近運平、奥宮健之(一一時一五分)、大石誠之助(一時一〇分)、(二時二〇分)成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三時一〇分)、崎久保誓一、成石勘三郎(三時四五分)への訊問。

一四日(午前一〇時四五分)松尾卯一太、新見卯一郎、佐々木道元、飛松与四郎(二時半)、坂本清馬(三時)、岡本穎一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治への訊問。

一五日、内山愚童、武田九平、岡本、三浦への訊問。

一六日、岡本、三浦、岡林、小松訊問と連日の集中審理であった。

証人申請の却下
幸徳は法廷の休廷日の一七、八日に弁護士宛ての文書を執筆した。無題であるが後に「陳弁書」と言われる。
裁判長は訊問が終わった時点で「自ら陳述したきことあらば陳述すべし」という。

以下の名は陳述した順と推定される。
一九日は森近、高木、宮下、新村、管野。

二〇日は古河、幸徳、成石平四郎。

二一日、高木、峯尾(午後一時)、大石。

二二日、幸徳。そして幾人かへの補充審問を終えた。

弁護活動の制約
二三日に弁護側の証人申請が行われ、二四日は弁護人の証拠書類閲覧。証人申請の補充説明、検事の反対意見陳述が行われた。しかし鶴裁判長は合議で弁護側の証人申請を全て却下した。

二五日は検事論告。平沼騏一郎が総論を展開し松室致が「刑法七三条を以て処断すべし」と全員に死刑求刑をなした。
弁論は二七日が花井卓蔵、今村力三郎。二八日、半田幸助、尾越辰雄、平出修、川島仟司。二九日に川島、宮島次郎、安村竹松、吉田三市郎、鵜沢総明、磯部四郎により展開された。
六月から一〇月の予審段階の後半で「被告」たちは弁護人選任の準備をすすめていたと推測される。平出修弁護士は八月に高木、崎久保の弁護依頼を引受け一〇月になり弁論のため資料の読み込みを始めている。   
被告たちの接見、通信禁止が解除されたのは一一月一〇日である。それ以前から特別発信で獄外の家族に手紙を出していたが「事件」のことに触れることはできなかった。


海外での抗議活動
九月二一日にロイター通信が日本における「天皇暗殺計画」として世界に記事を配信した。そして日本でアナキストが弾圧されたことを知ったエマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルらアメリカで活動をしていた五名のアナキストたちが抗議活動を展開した。ゴールドマンはロシアからアメリカに移住、ハベルはチェコ出身のアナキストであった。
一一月二二日にはゴールドマンたちがニューヨークで最初の抗議集会を開き、数百名が出席して「ニューヨーク・アピール」を採択した。駐米全権大使内田康哉あてに抗議文を送り、これを機に全米、ヨーロッパにおいて抗議行動が広がった。
日本での公判日、一二月一〇日にはロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。一二日に ゴールドマン、ハベルらがニューヨークで再び抗議集会を開き、日本の首相、桂に抗議文を提出することを採択した。
一二月一六日には岩佐作太郎がサンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開き、作家ジャック・ロンドンも支援、日本大使に抗議文を送った。
ハベルはゴールドマンや同志たちと刊行していた『マザー・アース』誌一二月号に<コウトク事件>と題して裁判と抗議行動の報告を掲載する。

記事への弾圧
大審院の法廷が開始されると新聞の発禁処分が続いた。
一二月二二日発行の『宇和島朝報』五四六号に掲載の記事「爆発物隠匿事件」は「無政府主義を賛したるもの」として、一二月二三日に禁錮3ヶ月の処分を受けた。
二六日発行の『高知月曜』掲載の記事「所謂第二の維新」は「幸徳秋水の挙を暗に賞揚した」として三〇日に発売頒布禁止差押となった。
 
不敬罪弾圧
また捜索押収の文書から不敬罪弾圧も進行した。
一〇月一九日、前橋地方裁判所、重禁錮五年、岩崎松元。
一一月四日、名古屋地裁にて判決。懲役五年、鈴木楯夫。
一一月二二日、前橋地方裁判所にて判決。懲役五年、長加部寅吉、懲役四年、坂梨春水。
一二月一日、東京地方裁判所にて判決。懲役五年、橋浦時雄。
一二月二一日、東京地方裁判所にて判決。懲役五年、田中泰、相坂佶。

2011年1月号
判決
大審院特別刑事部、裁判長鶴丈一郎と六人の裁判官は一九一〇年一月一八日に判決をなした。帝都東京における官庁街での武装蜂起計画と天皇、皇太子の殺害計画の物語を幸徳秋水の首謀による「陰謀事件」として認定した。判決理由は予審段階で検事・判事がフレーム・アップした内容の追認である。管野須賀子ら数名の天皇打倒の意思と相談が増幅された。誘導された「調書」と爆裂弾の材料とされるものが証拠である。
全ての「陰謀」を幸徳につなげ、幸徳の「無政府共産主義」に被告たちが感化された認定した。その「無政府共産主義」の内容も、議会政策を否定し直接行動を主張し暴力革命を唱え、幸徳の翻訳によるクロポトキンの『パンの略取』などの著作を所持し読んでいたという行為が語られるだけで本来の「無政府共産」の思想内容が分析されているわけではない。「クロポトキン」の名と共に天皇国家転覆の意思のシンボルにされたわけである。大審院はその思想すら語れずに「主義」を裁いているのである。
一二人の処刑
判決から六日後に刑の執行がされた。一月二四日、東京監獄にて幸徳秋水、午前八時六分処刑。新美卯一郎、午前八時五五分処刑。奥宮健之、午前九時四二分処刑。成石平四郎、午前一〇時三四分処刑。内山愚童、午前一一時二三分処刑。宮下太吉、午後一二時一六分処刑。森近運平、午後一時四五分処刑。大石誠之助、午後二時二三分処刑。新村忠雄、午後二時五〇分処刑。松尾卯一太、午後三時二八分処刑。古河力作、午後三時五八分処刑。二五日、管野須賀子午前八時二八分処刑。(時間は大逆事件研究家、神崎清の著作による)

世界の抗議活動
一二人の処刑に対して世界的な抗議活動が続いた。アメリカでエマ・ゴールドマンらが発行していた『マザー・アース』誌一九一一年二月号に同志のヒッポリート・ハベルが書いている。「悪業が行なわれた。…だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。……ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。……だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。…」
言論弾圧
判決直後から日本国内で発行される新聞に対して発売頒布禁止差押の処分が続いた。
「無政府党と政府」『東京信用日報』二十日、「 逆賊獄中の書束」『毎日電報』二一日、「逆徒の書信」『大阪毎日新聞』二一日、 「秋水と親交ある枯川の談話」『中国民報』二二日、「ザ・リーダー・オブ・ザ・ソシアリスト」『ジャパン・アドバタイザー』二二日、「幸徳と堺枯川、社会主義と無政府主義」『九州新聞』二四日、「秋水と水魚の交りある枯川の実話」『土陽新聞』二五日。

橋浦日記
二号前に紹介したが学生の橋浦時雄は押収された日記の記述の一部が不敬罪とされ起訴、裁判となり東京監獄に在監していた。
八監三三房に囚われていた橋浦は日常も含め幸徳たちとの束の間の出会いを記述し日記に残している。幸徳たちが処刑されまで短い期間であるが同じく囚われた立場として限界があるが生の断片が語られている。引用されることのない史料なのでごく一部であるが紹介をする。橋浦は幸徳や新村忠雄と面識があった。
「翌年一月三日だったと記憶している、その日運動に出ると看守はウッカリ幸徳氏のいる二四房のドアをあけて幸氏と談話していた」
幸徳の房が明らかにされている。(幸徳を幸氏と表現している)
「僕の通るのを幸氏は知らないでいたが、僕は壮健な姿を見てオヤオヤあすこにいるんかと思った。帰監の時にもドアはあいていた。幸氏も笑顔で僕を見送る。僕も見帰返る。心持挨拶するといった具合であった。その時の心地はドンなであったろう。僕はこの幸運を彼に感謝した。…」
「その後四十四年(一九一一年)一月二十二日、この日が日曜日ならたしかに相違ない。運動から帰ると二十四房があいて看守が話をしていた。……通りすがりに僕はふり帰る。幸氏ものびあがって僕を見ようとする。……両人の視線が会うと淋しい笑顔が幸氏を襲うた。この時も彼に感謝の意を表した。」
「この一月二十二日には尚お断腸すべき記憶がある。……それは新村忠雄君であった僕はあれが近い内に死刑にやられるのかと思うとドウ身振りして慰めていいのか思付かなかった。新村君は初めから了りまで鉄拳を上下にふり動かしている。僕はその意を了解して胸をたたいた。運動が了ると忠雄君はのび上りのび上がり見送るのであった。ああその昼いかに涙多かりしよ。」
「僕の対向の監房の向って左隣が成石平四郎君で…」「僕の右隣が奥宮健之君の居房で……」「三十房か二十九房かにいたのが新美(卯一郎)君で濃い髭の人物で、おハチにかぶり付いてる処をチラと見た事がある。」
「二十三日の朝の話をその後聞けば、絞殺場近処には看守が番として二、三いたそうな。そして幸徳、新美、奥宮、森近、という順に出房して病院の裏を通り十一名は殺された。…」「その日の奥宮君の出房は僕も知っていた。…」(処刑日は二四日であるが獄中では後に伝聞で日付が誤って伝わる)。
東京監獄
 監獄の日常も描写され、落書きの文言も引用がある。橋浦は「被告」とされた同志たちの様子を少しでも記録しておきたかったのであろう。
「運動時間はハッキリ定ってもいなかったろう。…運動場の板塀には色々なイタズラが書いてある。特に二十六人組(大逆事件被告)のイタズラは目に付いた。アナキストなんかと書いてある。…」
「午前中に入浴のある時もある。而し大抵午后であった。入浴日は土曜日と水曜日であった。風呂は三つに分れていた。或は四ツであったかも知れぬ。…正午頃に中食となる。中食には何か煮しめたものを食わせる。塩鮭や豚汁は仲々甘味かった。晩食も大抵は汁であるが時には焼いたゴマ塩ばかり舐めさせられる時もあった。夜も暫くして、やがて就床の号令と共に寝るのである。蒲団は上下二枚で、雑居房は大蒲団一枚だそうな。」

手記
二五日に処刑された管野須賀子の手記を今日なお読むことができる。引用をする。「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず 自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものこれ。明治四十四年一月十八日須賀子(於東京監獄女監)。
 判決の日の朝の描写から始まる。そして判決を聴き怒りが表現されていく。
「明治四十四年一月十八日曇、死刑は元より覚悟の私、只廿五人の相被告中幾人を助け得られ様かと、夫のみ日夜案じ暮した体を、檻車に運ばれたのは正午前…読む程に聞く程に、無罪と信じて居た者まで、強いて七三條に結びつけ様とする、無法極まる牽強付会(こじつけ)が益々甚だしく成って来るので、私の不安は海嘯の様に刻々に胸の内に広がって行くのであったが、夫れでも刑の適用に進むまでハ、若しやに惹かされて一人でも、成る可く軽く済みます様にと、夫ばかり祈って居たが、噫、終に…」
「新田の一一年、新村善兵衛の八年を除く他の廿四人は凡て悉く之れ死刑!」二人は爆発物取締罰則だけが適用され有期刑であった。
「実は斯殷うも有うかと最初から思わないでは無かったが、公判の調べ方が、思いの外行届いて居ったので…今此の判決を聞くと同時に、余りの意外と憤懣の激情に、私の満身の血は一時に嚇と火の様に燃えた。弱い肉はブルブルと慄えた。噫、気の毒なる友よ。同志よ。彼等の大半は私共五、六人の為に、此不幸な巻添にせられたのである。私達と交際して居ったが為に、此驚く可き犠牲に供されたのである。無政府主義者であったが為に、圖らず死の淵に投込まれたのである」
 この率直な心情の吐露を読むと管野は大審院の審理内容にある程度の期待をしていたところがあったようだ。もちろん自身のことではなく、爆裂弾のことも知らない二〇人余りの同志たちが無縁であったことを誰よりも承知していたからである。
 続けて最後の別れのあいさつができたことを記している。
「……記憶せよ、我同志!、世界の同志!!…「驚ろいた無法な裁判だ」と、独り繰返す外は無かった。…さらば、廿五人の人々よ。さらば廿五人の犠牲者よ。さらば!。「皆さん左様なら」私は僅かこれ丈けを言い得た。「左様なら…」「左様なら…」太い声は私の背に返された。……「万歳──」と叫ぶ──抹消]叫ぶ声が聞えた。多分熱烈な主義者が、無政府党万歳を叫んで居るので有う。(この項続く)。
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# by futei8 | 2011-01-24 09:06

大逆の100年

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12月下旬刊行
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掲載誌表紙
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# by futei8 | 2011-01-18 18:23
 100年前の1910年8月22日、「帝国」日本が大韓帝国を強制「併合」した。すでに外交権を奪い軍隊を解散させての占領下でこの22日に条約を「締結」し29日に天皇陸仁の名により公表、告知した。
 
 大韓帝国に対する占領、強制併合に至る「帝国」日本の侵略の歴史を認識することから出発し強制占領・植民地支配における暴力、民族差別に対する日本の国家責任、「帝国」日本の最高責任者であった三代にわたる天皇の責任を明らかにし謝罪と占領下・独立戦争下の被害者・遺族への国家としての戦後補償が正しくなされ、また企業責任も問われ戦後補償が正しくなされることが求められている。

 1875年9月、天皇を頂点とした日本の専制政府は領土拡大と資源強奪の野望のもと朝鮮の首都への入口、江華島・カンファドに軍艦「雲揚」により進攻し砲台を破壊、朝鮮兵35人の殺害、永宗島ヨンジョンドを占領、民家を焼き払という東アジアの平和を壊す愚かな行為に出て朝鮮の社会を脅かした。

江華海峡
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ブログ内リンク 
江華海峡とチョジジン・草芝鎮の岸辺

 翌1876年1月、艦隊を朝鮮に派遣し軍事力行使を背景に賠償と不平等な修好条約を締結した。天皇を神格化した憲法により「国民」統合をおしすすめ始めた日本は、さらにアジア大陸への侵略のため1894年7月23日、東学党の反乱と同調し朝鮮政府に対し決起した農民たちの「鎮圧」を名目にソウルの王宮に進攻し日朝戦争をひきおこした。そして朝鮮支配を強化せんとしていた清国と開戦し、その軍を朝鮮から排撃し旅順における清国の民衆虐殺をひきおこした。

 日本の軍隊と対峙のためこの甲午の年の秋に再び決起した農民兵たちに対し非対称な武器で優位にたちながらも天皇を最高責任者とした広島の大本営は農民兵の殲滅を指示した。朝鮮政府軍を従えた日本軍は少なくとも3万人以上の農民兵の大虐殺を行い翌年春までに朝鮮最西南端の海南・珍島まで追いつめ殲滅した。
 その侵略と戦争行為は止まず1895年台湾へ進攻し抵抗する人々への虐殺をすすめ台湾植民地戦争を遂行し「帝国」日本が出現した。

 従来「日清戦争」と総称されるこの近代最初のアジアの国によるアジアの国における戦争は朝鮮、中国、台湾を戦場としてアジア民衆へのジェノサイドを遂行することにより始まった。この戦争はアジア民衆に長く続く苦痛を与える侵略の開始であり「帝国」日本の敗戦まで継続した侵略と虐殺の50年にわたる暴力による支配と占領、戦争の始まりでもあった。

 朝鮮民衆に対しアジア・太平洋戦争に至るまで過酷な抑圧と支配を「帝国」日本とその多くの国民は暴圧をもって貫き義兵闘争時、3・1独立闘争、間島における住民たちへ、関東大震災時における朝鮮人への虐殺とジェノサイドは続いた。

 占領、植民地化の朝鮮の民衆に対し皇民化政策のもと「帝国臣民」としつつ治安維持法などを背景に治安取締の対象民族として朝鮮人に対する戦時動員、朝鮮女子勤労挺身隊、朝鮮人軍人・軍属・被徴用労働者、日本軍「慰安婦」として虐待・奴隷的労働を強要し、「満州」、中国に広がった独立闘争の活動家に対しては戦争状態で対峙した。強制労働、動員の範囲は樺太地域、南方にも及んだ。

 今日なお朝鮮国内外での戦時動員、あるいは独立運動を闘った人数、実態、犠牲者数など事実を知り得ない。

 そして敗戦以降65年の間、その侵略、占領、植民地支配の責任、過去清算、真相究明と謝罪を国家、昭和天皇、現天皇と多くの国民は明確にできず、アジアの平和と地域の安定、人権問題・民族差別に影響をおよぼしてきた。こんにちなお日本の市民も真相究明と謝罪が求められる。私たちはこれから述べる歴史認識を確認したうえでこれから暴力の無い平和なアジアの地域を市民の立場から築いていくことを宣言する。

二、植民地支配の歴史と独立戦争・闘争

「日清戦争」が終結した後も「帝国」日本は1895年10月、ロシアの影響排除を目的として朝鮮政府の権力構造に実力で介入、前年に続き再び朝鮮王宮に進攻し朝鮮政府軍、官僚、女官、王后を虐殺した。

 その現場首謀者はソウルにおける外交の最高責任者、領事・三浦梧桜以下であり日本の軍隊と連携をとり景福宮に侵入した。このような日本の軍隊を動かしてまでの侵攻と殺戮は藩閥専制の日本政府の実力者の指示がなければ実行できないが広島に送還した48人を免訴にし本裁判に付さず真相究明は放棄された。そして指揮官の軍人8名が軍法会議にかけられたが無罪放免になった。 
 未だこれらの行為に対して日本政府による真相究明は取組まれていない。
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乾清宮


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1894,95年日本帝国の侵略の場・景福宮 修復と「復元」権力者不在の「宮殿」の現在

 この乙未事変・ウルミサピョンと朝鮮政府内での前年からの甲午改革・カポケピョクによる近代的改革の推進に対し義兵闘争が起こされた。

 1897年朝鮮は大韓帝国と国号を変えた。一方、覇権をめぐり「帝国」日本はロシアとの緊張が高まりついに1904年、ロシアとの戦争を開始し大韓帝国に対しては軍事力を背景に2月に「議定書」、11月には「日韓協約」を強制締結させた。1905年日露戦争の収束後、11月になり日本は一方的な乙巳・ウルサ条約と言われる「保護条約」を「特派大使」として乗り込んだ伊藤博文が高宗を威嚇、武力示威を後ろ盾に調印を強要し外交権を奪った。

 これらの強制の保護条約により「帝国」日本による強制占領が開始されたのである。さらに義兵の決起が続いた。
 1907年、大韓帝国皇帝、高宗・コジョンはオランダ・ハーグに特使を秘かに派遣。第二回万国平和会議にウルサ条約の不法と強要、侵略を世界に広く知らせようとした。しかし「帝国」日本は天皇陸仁の名のもと高宗皇帝を息子に強制譲位させ、軍隊解散をさせたうえで内政権を掌握する協約締結を強要し占領政策を強化した。
 それにより軍人の抗日闘争が起きソウル市内で日本軍と市街戦になり軍人たちは義兵部隊に合流した。義兵戦争が拡大しさまざまな人々が参加し抗日戦争となった。義兵の戦死者二万人、民衆へのジェノサイドも数万人ともいわれるこの時期の「帝国」日本の軍隊の暴力支配の究明が求められる。

 一方、この時期、東京に滞在していたアジア各国の独立を望む活動家は「亜州和親会」を発足させ独立運動を活性化せんとした。その影響を受けた少数ではあるが日本の初期社会主義者たちは1907年7月21日、「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」と決議を発した。
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 改めて103年前にこの「決議」が発せられたことを確認し、日本においても多数の民衆が併合論をよしとする社会状況のなか独立が必要だと明確に主張をしたことを記憶にとどめたい。

 1909年10月26日、安重根・アン・ジュングンはハルビン駅構内で朝鮮統監府前統監の伊藤博文を射殺した。ロシアの管轄権をこえて「帝国」日本の外務省下にある関東都督府地方法院での審理が1910年2月に始まった。伊藤の罪を予審訊問や法廷で述べ「国土と民衆」を蹂躙したこと、韓国と東洋の平和が侵害されている現実とその責任を挙げ「東洋平和論」を述べた。しかし3月26日、殺人の罪で処刑された。


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アンジュングンへの死刑判決本文・理由の報道

関東都督府地方院弁論、アンジュングンの意見表明

アン・ジュングン関東都督府地方法院2月7日法廷


 日本では天皇殺害の計画があったとして日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧がかけられた。幸徳秋水ら12人が処刑された刑法73条による大逆罪事件である。大逆事件の弾圧と日韓強制併合は同時進行であった。
 大逆事件で弾圧された社会主義者たちは1907年の「朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重、帝国主義的政策批判をなし日本政府による朝鮮独立の保証」を決議したメンバーと重なる。

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大逆事件 大逆罪・爆発物取締罰則弾圧による国家テロリズム

 1910年8月22日「帝国」日本はソウルに一個師団の日本軍の駐屯とさらなる結集を背景に併合条約を大韓帝国に強制締結させ29日に天皇の名による告知で韓国民に一方的に広めた。本国内の日本の社会主義者たちの活動を封じたうえでの強制併合の施策であった。

 設置された「帝国」日本による朝鮮総督府は三権を掌握、日本への同化主義、朝鮮人による新聞、雑誌を認めない、宗教以外の自主的社会活動を認めないという権力末端の憲兵・警察を駆使した暴力支配で占領、植民地支配を徹底した。しかし占領・植民地支配に対し、抗日独立運動の闘いが継続された。
 
 一方、国策会社であり天皇、皇族が大株主の東洋拓殖株式会社は政府の補助金により土地の買収を進めた。1910年から1918年にわたる朝鮮の土地の地調査事業で日本が接収した土地のうち1万1400町歩が東洋拓殖株式会社に現物出資され、植民地経営の一翼として朝鮮人小作農に貸し付け最大の地主として植民地支配を支えた。過酷な条件で農民は生活を圧迫され離農、移住労働者にならざるを得なかった。

 その間、日本に留学した朝鮮からの学生は留学先の大学内で母語である韓国語の使用を抑圧され抵抗の運動を作り始め日本国内においても独立の主張の言論が少数でも展開された。

 1919年のパリ講和会議ではアメリカの都合によい主張であるが「民族自決」「植民地問題の公正解決」が含まれていた。日本に留学していた朝鮮の学生はこの国際情勢を独立の機会として考え「朝鮮青年独立団」を組織し独立宣言書と決議文を発表した。2・8独立宣言であり民族の生存権を主張した。

 東京での決起に続き3・1独立運動が広がった。

 鐘路・チョンノのパコダ公園に学生・市民が集まり独立宣言書が朗読され太極旗をもち「独立万歳」を叫んで市内で示威運動を展開した。宣言書は「吾等はここに朝鮮が独立国であるとと、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まり「侵略主義、強権主義の犠牲となって十年の間に生存権が奪われたこと。子孫に安全な幸福を導き迎えるには民族的独立を確実にする」と記される。

 この全土で二百万人余りの民衆の参加、中国東北地方にも広がった反日独立闘争に対し「帝国」日本の警察と軍隊は銃剣で厳しい弾圧を加え京畿道水原の堤岩里における虐殺を含め7,000人をこえる虐殺、五万人近くの逮捕者というというジェノサイドをおこなった。大規模な独立闘争はおさえられたがアジアの民衆にも大きな影響を与え、近代史上最大の反日独立闘争であった。

 次に「帝国」日本の朝鮮総督となった斉藤実は暴力支配を根幹とする治安維持政策は変わらないが朝鮮民衆への懐柔と分断政策も進めた。この時期民衆は新たな抵抗運動を組織し集会・結社・言論活動を広げ労働運動、農民運動、衡平運動を闘い始めた。同時期の日本本国の民衆による1918年の女性たちの決起を契機とした米騒動、1919年の労働運動の勃興、1920年すでに居住していた朝鮮民衆も参加した「日本社会主義同盟」の結成と国家の権力に対する闘いにおいて相互の影響があり共同した闘争が萌芽し始めた。

 1921年11月には当時、勉学や労働のため東京で生活をしていた社会主義の傾向をもつ朝鮮の学生や労働者により黒濤会という団体が結成された。朝鮮の人々による社会主義グループの結成は初めてであり、参加メンバーは日本国内での独立運動の中心となっていった。

 1922年夏、新潟県の水力発電所工事現場における朝鮮人労働者の虐待と数体の遺体が信濃川に流れつくという虐殺事件がおきその真相究明運動が朝鮮と日本の社会主義者により初めて共同して進められ、9月には東京において大規模な報告集会が開かれた。
 この真相究明と抗議の運動が共同して取組まれたことも強制併合100年の歴史の中で記憶せねばならない。

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1922年新潟・中津川事件

 中国に展開した朝鮮の独立運動の主要は臨時政府として上海に統合された。そして中国東北部の間島地方での武力闘争を展開する。「帝国」日本の軍隊は1920年8月、「間島地方不逞鮮人焦土計画」を立てるが10月に金佐鎮部隊が青山里において日本軍へ壊滅的打撃を与え、その報復に1921年4月まで間島地方の朝鮮人村落においてジェノサイドを行使し、当初の2ヵ月間だけで殺害3,600余名、婦女強姦70、家屋放火3,200軒との報告がある。

 一方、義烈団は少人数での武装闘争を展開するために結成された。1923年1月、独立活動家申采浩・シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は独立闘争の理念と具体的行動を長文で宣言した。それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが民衆における階級問題や親日派への批判を明確にし、3.1独立宣言の限界を越える内容として起草された。

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≪朝鮮革命宣言≫1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した 
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シン・チェホ 獄中の肖像


 1923年「帝国」日本の「帝都」東京において関東大震災が起きた、自然災害であったが政府、軍隊は発生直後に戒厳令を施行すると共に在留朝鮮人を脅威とするデマゴギーを流布した。それに民間人が軍隊、官憲と協同した自警団が組織され少なくとも6,000人余りが虐殺されジェノサイドを行使した。

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和田久太郎意見陳述

 3・1独立闘争、間島における民衆虐殺と同様、関東大震災時の朝鮮人虐殺も、日本政府による真相究明と謝罪がなされず今日に至っており国会における真相究明と謝罪がなされることを求める。

 1923年末から翌年にかけて日本人の社会主義者や朝鮮の独立活動家は震災時の朝鮮人虐殺に対して摂政宮裕仁に責任があると武装闘争で決起をする。彼らは死刑判決で処刑されるか獄死をした。
「帝国」日本の暴力支配とジェノサイドに対し個々の活動家が責任追及のため決起した状況下、日本政府は震災時の朝鮮人虐殺を正当化するため天皇への暗殺計画が朝鮮人と日本人のアナキストにより同年に準備されていたというフレームアップをしかけ刑法七三条、大逆罪で大審院に付した。真相究明が未だなされていない。

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金子文子の生き方

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金子文子


 1928年、台湾において1932年、東京において独立活動家の皇室メンバー、天皇への闘いがあり処刑された。同年、上海における植民地支配者日本政府高官への闘いもあり処刑された。

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朝鮮独立運動家が処刑された10月10日

 1930年代以降も中国東北部でのコミューンを拠点にした独立闘争、民族主義での抗日戦争、中国や台湾、日本国内における闘争は続き「帝国」日本の「大東亜共栄圏」の版図は抗日戦争、独立闘争を担う朝鮮の人々にとって戦場であり 義烈団や民族主義団体、社会主義グループによる抗日武装闘争が組織的に取組まれた。

 治安維持法、大逆罪弾圧と日本の暴力的な植民地支配は不可分の関係である。台湾や朝鮮を侵略し植民地支配、占領していた「帝国」日本は本国の刑法を支配地において準じて適用していた。独立活動家の少なからずは「帝国」日本、天皇を攻撃目標としていた。「帝国」日本はその敗北まで戦争状態で対峙せざるを得なかった。

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治安弾圧法

 一方、朝鮮における労働者が急増、朝鮮人労働者への不当な違約金の徴収や日本人との賃金格差も極端化し賃金労働者の生活は困窮した。1921年釜山の埠頭労働者の争議を皮切りに争議は増加、なかでも1929年の元山におけるストは広がり最大の争議となった。しかし警察や日本軍400名の動員により弾圧された。朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議は日本国内でも取組まれ、朝鮮では光州学生闘争、新幹会の結成など民衆の闘争も持続された。

 大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が1938年に結成され中央本部は朝鮮総督府におかれ朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略を前にして朝鮮の民衆を「帝国」日本に組み込むため創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、日の丸の掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布。朝鮮での徴兵実施に向け1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し「国語」として日本語使用を強制した。


関連リンク
第六回自由共同体ワークショップ
日韓強制併合、李會榮の「満州」亡命、大逆事件100年
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# by futei8 | 2010-08-01 21:16
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ブログ内リンク
 1894,95年日本帝国の侵略の場・景福宮 修復と「復元」権力者不在の「宮殿」の現在


外部リンク
 ユン・コンチャさんのサイト
ソウル散策 旧ロシア公使館
 
 こぼれ話2の「明成虐殺事件」に関して

 ユン・コンチャさんは「なにもそんな遠くまで行かなくてもいいらしい、という記事が出ていました。お池に建つ慶会楼(1万ウォン札の絵)の北側、今は非公開区域の乾清宮」

と記されています。

 しかし乾清宮も一番奥、最北の位置なので「遠くまで行く」ことには変わりがありません。


リンクサイト
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[直接行動の論]
クリスティーヌ・レヴィ( 歴史家),鴻英良(演劇批評家)/対談レクチャー
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麺麭の略取

麺麭の略取

アナキズム文献翻訳事始め 

98年10月21日メモ99.2.28 

一冊の古い書物を所蔵している。印刷され配布されてから90年の年数を経ている。

表紙は厚手の上質紙で本来は白であったのかクリーム色であったか判然としない。

最初の所有者が入手してから読み込まれ長い歳月を耐え抜いた痕跡が薄い焦げ

茶色に変色した表紙に現れている。

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本文頁の最初には「明治42年?月」読み始め

の月日が記されている。何番めかの所有者かは不明だが蔵書印も押されてある。  

この書物自体のたどった経過も大いに関心を引くが、英語版原本から翻訳した人物

は時の国家権力により絞首台に送り込まれた叛逆の思想の体現者であった。  

表紙には『パンの略取』、クロポトキン著、平民者訳としか記されていない。

なによりも訳者名を平民社訳とせざるを得なかった当時の出版状況は厳しいもので

あった。  

 最初の出版から60年を経て岩波文庫の一冊として初めて単行本として刊行された

時に訳者名が幸徳秋水と著わされた。  

 クロポトキンの著作は当時、大杉栄、大石誠之介も部分的に訳していたが一冊の書

物としてまとめられ、出版されたのは、この「明治」43年1月31日刊平民社版が最初で

あった。  

 この地理としては日本列島と呼称される地域で革命思想としての無政府主義が意識

され、運動の潮流として形造られ始めた時期は、1906年から08年といえるだろう。  

 その中心人物が幸徳秋水であり、この『麺麭の略取』の翻訳が無政府主義の考えが広

がることに大きな力をもっている。

 坂本清馬は「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」で語っている。

「12月の半ばであったカ、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが数日続いた。」


 メモ追加(2011.6.10)
 先月、「大逆事件」の弁護団の一人、平出修(しゅう)弁護士の孫である平出洸(ひろし)さんの講演「大逆事件と石川啄木」を企画した。
 平出洸さんは私が参考文献として持参した『麺麭の略取』と『平民主義』を講演で紹介しつつ、啄木が詠んだ

 あかがみの  表紙手擦(てず)れし  国禁(こくきん)の書(ふみ)を  行李(かうり)の底にさがす日   

 に関してその「書」は、『麺麭の略取』とする研究者、あるいは『平民主義』とする研究者に分れていると説明をした。
 私は数年前までは『平民主義』の表紙画像はモノクロでしか見たことがなく、原本を入手してはじめて同書の表紙が鮮やかな赤であったことを知った。以来、啄木の「書」は『平民主義』であると思い込んでいる。


同書は一九〇三年末から〇六年末にかけて平民新聞等に執筆した論文集である。一九〇七年四月刊。

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 以下、引用のみ。

「パンの略取と正進会」『アナキストクラブ』収載       綿引邦農夫

「まず、大正八年十月ごろ、布留川桂は、かねて知っている元園町の堺利彦宅からクロポトキン著・幸徳秋水訳『麺麭の略取』一本を手に入れてきて、当時正進会中での能筆家、小林進次郎君(のちに同志数名と労働者として最初のソビエトロシア入りをした、現在も植字工として働いている)に、これの複写をすることを頼んだ。当時、活動的な組合員の大部分は文選工なので、これを採字して活版化し大量に流すことはお手のものだが、いずれもその筋の要視察者とされている連中なので、目につきやすい活版化、謄写版化の方法をさけて、わざと非能率的な複写によることにした。しかし、これはかえって有効であった。」  

 「うすでの丈夫な日本紙の間にタンサン紙をはさみ、これを六枚かさねて書いたのだが、上部は傷がつき、下部は写りがわるく、結局中の三、四枚がものになる。この仕事は容易ではなかったが、かれの旺盛な闘志は、一冊大体三十四字詰め、二十四行、百九十四枚のぼう大なものを一回二十日ないし一カ月かかって仕上げ、一年余のあいだにおよそ十回は繰り返したろう…と本人もいっている。これを二円で分け合ったのだが、材料費にもあたらない。  
 
 これがさらに、各社の熱心な人々によって複写され、極秘のうちに社内に配られた。 この方法は、震災後の大正十三年ごろまで続けられた。  このほか、大正十年ごろ本物の活字本が十余冊某所から入ってきたので、その全部を合算すれば、おそらく百部以上行き渡ったことと思う。それがただ読むだけでなく、各社内で筆写を中心にさかんに討議がおこなわれるようになった。  

 大正九年四月には、機関紙『正進』を創刊した。その紙上には、はやくもクロポトキンの学説が載せられている。  わずか、五百人に充たない組合に百部が渡っとするとざっと五人に一冊ずつが渡ったことになる。  

 大正八年十二月九日に産声をあげた正進会は、翌九年四月信友会と提携して、労働組合による日本最初のメーデーを発企、実行し、また革新会の要求した八時間二部制、最低賃金制、月四回公休の公的実行を新聞資本家側に執拗、果敢に要求し、九年九月には報知新聞社でケース転覆事件をひき起こした。


 略  大正十年ごろの夏のあるむし暑い夕方
「今夜行くところがあるから定時にしないか、あとで話すから…」という連絡があった。
おち合った仲間が十人か、それ以上だったかはっきり覚えていない。
 どこへ?と聞いたら「番衆町」とだけ、それを答えたのは諏訪与三郎だったか、布留川桂だったか、それとも他の人だったか忘れた。いつもだったら、どこの誰のところへ何しに、というのに、この時に限って詳しいことはいっさい分からないまま、新宿行きの市電に乗った。  

 下車して、右へ曲がったか、左へ曲がったか忘れたが、六、七分も歩いたかと思う。番衆町のその家というのは、夜目にも広大な家で、植え込みをとおして見える庭の中央には、はだか電気がついて土俵らしいものがあり、その光がはるか先まで届いていた。  
 広い書院のような座敷には刀掛けなどもあり、すでに先客が十人くらいは、いたように記憶している。その中に大杉のいたことは確かだと思うが、ほかに誰と誰ということは、どうしても今は思い出せない。また、そこでどんな話が交わされたのか、その内容もすっかり忘れてしまった。  

 しばらくして、隅の方から二、三の人が本らしいものを持ってきて一人一人に配ってくれた。それがなんと『麺麭の略取』であった。むろん私ももらった。まさかこの夜、ここで、この『麺麭の略取』にお目にかかれるなどとは夢にも思わなかった。そのうれしさは、また格別だった。
 当時仲間では本物の『パン略』は発禁や押収などでほとんどないし、あったとしても高くて、とても手に入る代物ではないというのが常識だったのだから…。
 たぶん二円だったと記憶するが、持ち合わせのないものは、後で支払うということで、とにかく待望の『麺麭の略取』 の何冊かに思いもかけず、お目にかかることができた。そのことだけで頭がいっぱいになったためか当夜のほかのことは皆目忘れてしまった。  
 以上のようなわけで、四十年前に忽然と大量の『パン略』が正進会員の間に入ってきたのだが、前に書いたように、その経路が極秘にされていたので、今もって私はあの家のことがナゾとなっている。  

 ところが、たまたま、1960年7月発行の『労働運動史研究』の大逆事件特集号を読んだところ小松隆二君が補論という題で、近藤さんから聞いた話として、つぎのような特に私の注目を引く記事が載っている。  

<大正十年ごろだそうですが、三月ごろのある日、近藤さんが堺利彦を訪れたところ、堺に

「どうも、今日あたり、うちの手入れがあるらしい。そうだ、ちょっと厄介なものが家にある。それを外に持ち出してもらえないだろうか」

という話をもちかけられた。そこで、ともかく近藤さんがそれを外に運び出す役を負うことになった。

 その厄介なものというのは、発禁になっている『麺麭の略取』のことで、その全部が全部、明治41年末以来、ずっと堺家にあったのではなく、方々に隠しておいたものが、その頃には堺家に集められていたものらしいですが、およそ50冊くらいあったそうです。

 その運び出し方というのが面白く、その日、近藤さんは尾行をまいて堺家に行っていたので、まず、近藤さんが帰るふりをして外へ出る。その後、堺利彦が自身の尾行を連れて散歩に出て、堺家から尾行の監視の眼を取り去ってしまった。しばらくして先に出た近藤さんが人力車でそこへ乗り込み、四、五十冊の『麺麭の略取』をその車に積んで持ち出した。しかも念には念をいれて、堺家を出てから途中(靖国神社あたり)で車を乗り換えたりの苦労をして、全然気づかれずに運び出しに成功した。

 それからその『麺麭の略取』を堺さんと相談して、一部二円で正進、信友の外部にもらさないような信頼のおける人に頒布した。  これがおそらく、明治41年末に半ば秘密出版のかたちで刊行され、発売、頒布禁止になった『パン略』をまとめて処分した最後であろうと思われる一つのエピソードです。>  


 このことは、まだ直接、近藤さんに聞いてみないので、たしかなことはわからないが、どうも私の前に書いたのと同一のことのように思われる。  おそらく近藤さんもこの発表が初めてであろうし、私もまだ誰にも口外していない。  
 しかし、正進会員の大部分は下町に住んでいたので、この本物の『麺麭の略取』は、偉大な役割を果たしながらも大正12年9月1日の大震災で焼いてしまった。

 

 言及されている引用文献 『大逆事件を生きる』 坂本清馬自伝
 「『経済組織の未来』ほか 幸徳秋水とアナキズム」小松隆二



 「幸徳秋水と私」 『幸徳全集』付録冊子                    坂本清馬

「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」坂本清馬   

 わたしが寺の町、橋の町ともいうべき水都広島から東京に帰って、巣鴨平民社に行ったのは、明治41年11月の初めであった。…それから最も困難で且つ最も重大な秘密出版もやるという風に、文字通り寝食を忘れた猛活動であった。 「12月の半ばであったか、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。

 平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが数回続いた。」

 「こういう風にして、麹町三番町のある金持ち(多分先生の友人の小島竜太郎さんであように思う)の妾宅の倉庫に隠してある製本を、毎夜少しずつ取りに行ったり、昼間は市内や府下数カ所の郵便局に発送しに行ったりして、常に渾信身是れ眼といったような緊張した細心の警戒と不撓不屈の努力とを尽くして行動したので、平民社のすぐ眼と鼻のさきに昼夜張り込んでいる三人の尾行巡査や、いつやって来るか分からない同志の面を被ったスパイの封鎖網を潜って、地方同志に予約販売をし、米国同志、及びロンドン図書館等に寄贈して、完全にその目的を達成し得たのは、わたし一人が全身全力をこれに傾倒して、殆ど不眠不休の活動を続けたのに因ることは勿論であるが、戸恒、榎、管野、神川など、在京同志が、皆熱心にわたしの活動を直接間接に援助してくれたお陰であった。
 中島寿馬君は、中央郵便局からロンドンの大英博物館へ送ってくれたりした。しかも現在生きているものは、中島だけである。」


 英文原書は赤い羽二重のような絹表紙で、本は、非常に軽い、綿を引き延ばしたようなやわらかい紙に印刷した、厚さが二寸くらいの菊版の美しい書籍であった。訳者は幸徳伝次郎であったが、奥付けは平民社訳、代表者坂本清馬としてあった。それは、

「幸徳先生が入獄するようになると第一健康が気遣われるし、また全国の革命運動を指導するのに都合が悪い」という二、三同志の意見があったので

「じゃ僕が入獄るようにしよう。そうすれば都合がよかろうし、僕も獄中で勉強ができるし、一挙両得だから、僕が全責任をもって、飽くまでも秘密出版で押し通そう」
 ということに決定したからであった。  

 処がどういう魔がさしたものか、また誰と話し合ったものか、突然先生が「既に発送して了って目的を達したのだから、届けて見ようじゃないか」といい出した。  …  

 わたしは不満あったが、已むを得ず一月下旬内務省に本を添えて届出をした。  …  わたしが届出をすると、翌日警部と刑事がやって来て、一応わたしを訊問をして後、

 「原本と訳本とを頂いてゆきます」というから、

 「訳本はもう二十冊位しか残っていないのです。(註、わざと残してあった)不審に思えば御自由に捜して下さい。原本の英文書は、丸善でも教文館でも売っている本ですから、これを没収して来い、という御命令ではないのでしょう」というと、

 押し入れの中から訳本を二十冊ばかり持って帰った。或いは十冊から十四、五冊であったかも知れない。 間もなく、わたしは出版法違反で起訴された。

 公判廷で判事が「幸徳伝次郎が訳したのではないか」と訊問するから、

わたしは
 「この本の或る章は幸徳先生が訳したのもあり、また大杉君が訳したのもありますが、この本そのものはわたくしが訳したものであります。だから、わさくしが発行責任者となっています。

 平民社訳としてあるのは、名もないわたくしの訳としては売れないおそれがあるからであります。尤も両人の訳文を参考にはしてありますが」

 と答弁した。

 結局、罰金三十円の判決を受けたが、それはわたしが管野須賀子のことで先生と絶好して平民社を去った後のことで、罰金は管野を通して先生から受け取って完納した。

 これが『麺麭の略取』の秘密出版の真実の経緯である。  

スパイの「社会主義者沿革」二巻の19にはこの裁判を次のように報告してある。

「…幸徳伝次郎は…上京以来種々奔走せしも、何処にても該出版物の到底安全に発行し得られざるものなることを看破し、其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て、自己経営に係る『平民社』名儀を以て之を発行せんとせしが、安寧秩序を妨害するものとして禁止及差押の処分に付せられたり。

(明治42年2月1日告示第15号参照) 然るに其正規の届出を為す以前、既に之を発売頒布せし事実あり。

坂本清馬は之が為42年3月9日東京地方裁判所に於て出版法違反に依り罰金30円に処せらる」  

 このスパイの記録の中に記されてある

「幸徳伝次郎は…クロポトキン原著『麺麦の略取』と称する出版物を発行せんとし、上京以来種々奔走せしも、

(註、当時わたしはまだ23歳の浅学菲才の青年で、且つ先生の書生であったから出版費造成に就いては、先生に対して何等発言したことはなく、また先生が金策についてわたしに相談する筈もないのであったが、出版そのものについては、わたしと一応話し合って原稿を売るために書店に交渉していると、どうかしてスパイに探知されるかも知れないから、どこまでも自費出版でやるということに決定していたから、このスパイ記録に書いてあるように

 「其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て」て秘密出版をしたというような事実ではなかったのである)……其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て、自己経営に係る『平民社』名儀を以て之を発行せんとせしが、安寧秩序を妨害するものとして禁止及差押の処分に付せられたり」という文句だけを見ると、いかにもこの秘密出版が印刷中、もしくは販売中に、探知されて、禁止及び差押えの処分を受けたように聞こえるが、実際は上に述べたような事実であって、われわれが既に秘密出版の目的を達して後に、わたしたちは「内閣の弾圧がひどいから秘密出版をして、既に殆ど全部売って了いました。これだけ貴方たちに差上げるために残してありますから、すぐ取に来て下さい」と、

 いわんばかりに、二十冊だけ残してあったのである。しかも最初の決定に反して届出をしたからこそ分かったのであって、万一届出をしなかったならば、永久に発覚せず、発覚しても時効にかかっていたかも知れないのであったから、この戦いはわれわれの勝であった。  ここに、わたしが今でも満足していることは、この『社会主義者沿革』には、わたしが、「罰金30円に処せら」れたという事後の裁判結果のみを記してあって、わたしが、秘密出版をするために苦労した活動そのものについては、門前の三人の尾行巡査は勿論、警視庁も警保局も、全然探知し得なかったことである。

 註 印刷日は、明治42年1月25日であり、発行日は1月30日であったから、届出は多分1月28日頃ではなかったかと思う。何故かといえば、1月29日付け「出版法第19条による発売頒布禁止、刻版並印本差押処分」の公文書を持て、警部が刑事を連れて巣鴨平民社へ差押えにやって来たことが、最近分かったからである。 

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 1960年2月26日夜、於東京記す『文庫』1960年4月号


 
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# by futei8 | 2001-10-21 00:33