山歩きと韓国


by futei8

植民地支配の歴史 私案・草稿 無支配主義の視点から

 100年前の1910年8月22日、「帝国」日本が大韓帝国を強制「併合」した。すでに外交権を奪い軍隊を解散させての占領下でこの22日に条約を「締結」し29日に天皇陸仁の名により公表、告知した。
 
 大韓帝国に対する占領、強制併合に至る「帝国」日本の侵略の歴史を認識することから出発し強制占領・植民地支配における暴力、民族差別に対する日本の国家責任、「帝国」日本の最高責任者であった三代にわたる天皇の責任を明らかにし謝罪と占領下・独立戦争下の被害者・遺族への国家としての戦後補償が正しくなされ、また企業責任も問われ戦後補償が正しくなされることが求められている。

 1875年9月、天皇を頂点とした日本の専制政府は領土拡大と資源強奪の野望のもと朝鮮の首都への入口、江華島・カンファドに軍艦「雲揚」により進攻し砲台を破壊、朝鮮兵35人の殺害、永宗島ヨンジョンドを占領、民家を焼き払という東アジアの平和を壊す愚かな行為に出て朝鮮の社会を脅かした。

江華海峡
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江華海峡とチョジジン・草芝鎮の岸辺

 翌1876年1月、艦隊を朝鮮に派遣し軍事力行使を背景に賠償と不平等な修好条約を締結した。天皇を神格化した憲法により「国民」統合をおしすすめ始めた日本は、さらにアジア大陸への侵略のため1894年7月23日、東学党の反乱と同調し朝鮮政府に対し決起した農民たちの「鎮圧」を名目にソウルの王宮に進攻し日朝戦争をひきおこした。そして朝鮮支配を強化せんとしていた清国と開戦し、その軍を朝鮮から排撃し旅順における清国の民衆虐殺をひきおこした。

 日本の軍隊と対峙のためこの甲午の年の秋に再び決起した農民兵たちに対し非対称な武器で優位にたちながらも天皇を最高責任者とした広島の大本営は農民兵の殲滅を指示した。朝鮮政府軍を従えた日本軍は少なくとも3万人以上の農民兵の大虐殺を行い翌年春までに朝鮮最西南端の海南・珍島まで追いつめ殲滅した。
 その侵略と戦争行為は止まず1895年台湾へ進攻し抵抗する人々への虐殺をすすめ台湾植民地戦争を遂行し「帝国」日本が出現した。

 従来「日清戦争」と総称されるこの近代最初のアジアの国によるアジアの国における戦争は朝鮮、中国、台湾を戦場としてアジア民衆へのジェノサイドを遂行することにより始まった。この戦争はアジア民衆に長く続く苦痛を与える侵略の開始であり「帝国」日本の敗戦まで継続した侵略と虐殺の50年にわたる暴力による支配と占領、戦争の始まりでもあった。

 朝鮮民衆に対しアジア・太平洋戦争に至るまで過酷な抑圧と支配を「帝国」日本とその多くの国民は暴圧をもって貫き義兵闘争時、3・1独立闘争、間島における住民たちへ、関東大震災時における朝鮮人への虐殺とジェノサイドは続いた。

 占領、植民地化の朝鮮の民衆に対し皇民化政策のもと「帝国臣民」としつつ治安維持法などを背景に治安取締の対象民族として朝鮮人に対する戦時動員、朝鮮女子勤労挺身隊、朝鮮人軍人・軍属・被徴用労働者、日本軍「慰安婦」として虐待・奴隷的労働を強要し、「満州」、中国に広がった独立闘争の活動家に対しては戦争状態で対峙した。強制労働、動員の範囲は樺太地域、南方にも及んだ。

 今日なお朝鮮国内外での戦時動員、あるいは独立運動を闘った人数、実態、犠牲者数など事実を知り得ない。

 そして敗戦以降65年の間、その侵略、占領、植民地支配の責任、過去清算、真相究明と謝罪を国家、昭和天皇、現天皇と多くの国民は明確にできず、アジアの平和と地域の安定、人権問題・民族差別に影響をおよぼしてきた。こんにちなお日本の市民も真相究明と謝罪が求められる。私たちはこれから述べる歴史認識を確認したうえでこれから暴力の無い平和なアジアの地域を市民の立場から築いていくことを宣言する。

二、植民地支配の歴史と独立戦争・闘争

「日清戦争」が終結した後も「帝国」日本は1895年10月、ロシアの影響排除を目的として朝鮮政府の権力構造に実力で介入、前年に続き再び朝鮮王宮に進攻し朝鮮政府軍、官僚、女官、王后を虐殺した。

 その現場首謀者はソウルにおける外交の最高責任者、領事・三浦梧桜以下であり日本の軍隊と連携をとり景福宮に侵入した。このような日本の軍隊を動かしてまでの侵攻と殺戮は藩閥専制の日本政府の実力者の指示がなければ実行できないが広島に送還した48人を免訴にし本裁判に付さず真相究明は放棄された。そして指揮官の軍人8名が軍法会議にかけられたが無罪放免になった。 
 未だこれらの行為に対して日本政府による真相究明は取組まれていない。
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乾清宮


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1894,95年日本帝国の侵略の場・景福宮 修復と「復元」権力者不在の「宮殿」の現在

 この乙未事変・ウルミサピョンと朝鮮政府内での前年からの甲午改革・カポケピョクによる近代的改革の推進に対し義兵闘争が起こされた。

 1897年朝鮮は大韓帝国と国号を変えた。一方、覇権をめぐり「帝国」日本はロシアとの緊張が高まりついに1904年、ロシアとの戦争を開始し大韓帝国に対しては軍事力を背景に2月に「議定書」、11月には「日韓協約」を強制締結させた。1905年日露戦争の収束後、11月になり日本は一方的な乙巳・ウルサ条約と言われる「保護条約」を「特派大使」として乗り込んだ伊藤博文が高宗を威嚇、武力示威を後ろ盾に調印を強要し外交権を奪った。

 これらの強制の保護条約により「帝国」日本による強制占領が開始されたのである。さらに義兵の決起が続いた。
 1907年、大韓帝国皇帝、高宗・コジョンはオランダ・ハーグに特使を秘かに派遣。第二回万国平和会議にウルサ条約の不法と強要、侵略を世界に広く知らせようとした。しかし「帝国」日本は天皇陸仁の名のもと高宗皇帝を息子に強制譲位させ、軍隊解散をさせたうえで内政権を掌握する協約締結を強要し占領政策を強化した。
 それにより軍人の抗日闘争が起きソウル市内で日本軍と市街戦になり軍人たちは義兵部隊に合流した。義兵戦争が拡大しさまざまな人々が参加し抗日戦争となった。義兵の戦死者二万人、民衆へのジェノサイドも数万人ともいわれるこの時期の「帝国」日本の軍隊の暴力支配の究明が求められる。

 一方、この時期、東京に滞在していたアジア各国の独立を望む活動家は「亜州和親会」を発足させ独立運動を活性化せんとした。その影響を受けた少数ではあるが日本の初期社会主義者たちは1907年7月21日、「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」と決議を発した。
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 改めて103年前にこの「決議」が発せられたことを確認し、日本においても多数の民衆が併合論をよしとする社会状況のなか独立が必要だと明確に主張をしたことを記憶にとどめたい。

 1909年10月26日、安重根・アン・ジュングンはハルビン駅構内で朝鮮統監府前統監の伊藤博文を射殺した。ロシアの管轄権をこえて「帝国」日本の外務省下にある関東都督府地方法院での審理が1910年2月に始まった。伊藤の罪を予審訊問や法廷で述べ「国土と民衆」を蹂躙したこと、韓国と東洋の平和が侵害されている現実とその責任を挙げ「東洋平和論」を述べた。しかし3月26日、殺人の罪で処刑された。


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アンジュングンへの死刑判決本文・理由の報道

関東都督府地方院弁論、アンジュングンの意見表明

アン・ジュングン関東都督府地方法院2月7日法廷


 日本では天皇殺害の計画があったとして日本の社会主義者たちを壊滅させる大弾圧がかけられた。幸徳秋水ら12人が処刑された刑法73条による大逆罪事件である。大逆事件の弾圧と日韓強制併合は同時進行であった。
 大逆事件で弾圧された社会主義者たちは1907年の「朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重、帝国主義的政策批判をなし日本政府による朝鮮独立の保証」を決議したメンバーと重なる。

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大逆事件 大逆罪・爆発物取締罰則弾圧による国家テロリズム

 1910年8月22日「帝国」日本はソウルに一個師団の日本軍の駐屯とさらなる結集を背景に併合条約を大韓帝国に強制締結させ29日に天皇の名による告知で韓国民に一方的に広めた。本国内の日本の社会主義者たちの活動を封じたうえでの強制併合の施策であった。

 設置された「帝国」日本による朝鮮総督府は三権を掌握、日本への同化主義、朝鮮人による新聞、雑誌を認めない、宗教以外の自主的社会活動を認めないという権力末端の憲兵・警察を駆使した暴力支配で占領、植民地支配を徹底した。しかし占領・植民地支配に対し、抗日独立運動の闘いが継続された。
 
 一方、国策会社であり天皇、皇族が大株主の東洋拓殖株式会社は政府の補助金により土地の買収を進めた。1910年から1918年にわたる朝鮮の土地の地調査事業で日本が接収した土地のうち1万1400町歩が東洋拓殖株式会社に現物出資され、植民地経営の一翼として朝鮮人小作農に貸し付け最大の地主として植民地支配を支えた。過酷な条件で農民は生活を圧迫され離農、移住労働者にならざるを得なかった。

 その間、日本に留学した朝鮮からの学生は留学先の大学内で母語である韓国語の使用を抑圧され抵抗の運動を作り始め日本国内においても独立の主張の言論が少数でも展開された。

 1919年のパリ講和会議ではアメリカの都合によい主張であるが「民族自決」「植民地問題の公正解決」が含まれていた。日本に留学していた朝鮮の学生はこの国際情勢を独立の機会として考え「朝鮮青年独立団」を組織し独立宣言書と決議文を発表した。2・8独立宣言であり民族の生存権を主張した。

 東京での決起に続き3・1独立運動が広がった。

 鐘路・チョンノのパコダ公園に学生・市民が集まり独立宣言書が朗読され太極旗をもち「独立万歳」を叫んで市内で示威運動を展開した。宣言書は「吾等はここに朝鮮が独立国であるとと、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まり「侵略主義、強権主義の犠牲となって十年の間に生存権が奪われたこと。子孫に安全な幸福を導き迎えるには民族的独立を確実にする」と記される。

 この全土で二百万人余りの民衆の参加、中国東北地方にも広がった反日独立闘争に対し「帝国」日本の警察と軍隊は銃剣で厳しい弾圧を加え京畿道水原の堤岩里における虐殺を含め7,000人をこえる虐殺、五万人近くの逮捕者というというジェノサイドをおこなった。大規模な独立闘争はおさえられたがアジアの民衆にも大きな影響を与え、近代史上最大の反日独立闘争であった。

 次に「帝国」日本の朝鮮総督となった斉藤実は暴力支配を根幹とする治安維持政策は変わらないが朝鮮民衆への懐柔と分断政策も進めた。この時期民衆は新たな抵抗運動を組織し集会・結社・言論活動を広げ労働運動、農民運動、衡平運動を闘い始めた。同時期の日本本国の民衆による1918年の女性たちの決起を契機とした米騒動、1919年の労働運動の勃興、1920年すでに居住していた朝鮮民衆も参加した「日本社会主義同盟」の結成と国家の権力に対する闘いにおいて相互の影響があり共同した闘争が萌芽し始めた。

 1921年11月には当時、勉学や労働のため東京で生活をしていた社会主義の傾向をもつ朝鮮の学生や労働者により黒濤会という団体が結成された。朝鮮の人々による社会主義グループの結成は初めてであり、参加メンバーは日本国内での独立運動の中心となっていった。

 1922年夏、新潟県の水力発電所工事現場における朝鮮人労働者の虐待と数体の遺体が信濃川に流れつくという虐殺事件がおきその真相究明運動が朝鮮と日本の社会主義者により初めて共同して進められ、9月には東京において大規模な報告集会が開かれた。
 この真相究明と抗議の運動が共同して取組まれたことも強制併合100年の歴史の中で記憶せねばならない。

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1922年新潟・中津川事件

 中国に展開した朝鮮の独立運動の主要は臨時政府として上海に統合された。そして中国東北部の間島地方での武力闘争を展開する。「帝国」日本の軍隊は1920年8月、「間島地方不逞鮮人焦土計画」を立てるが10月に金佐鎮部隊が青山里において日本軍へ壊滅的打撃を与え、その報復に1921年4月まで間島地方の朝鮮人村落においてジェノサイドを行使し、当初の2ヵ月間だけで殺害3,600余名、婦女強姦70、家屋放火3,200軒との報告がある。

 一方、義烈団は少人数での武装闘争を展開するために結成された。1923年1月、独立活動家申采浩・シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は独立闘争の理念と具体的行動を長文で宣言した。それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが民衆における階級問題や親日派への批判を明確にし、3.1独立宣言の限界を越える内容として起草された。

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≪朝鮮革命宣言≫1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した 
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シン・チェホ 獄中の肖像


 1923年「帝国」日本の「帝都」東京において関東大震災が起きた、自然災害であったが政府、軍隊は発生直後に戒厳令を施行すると共に在留朝鮮人を脅威とするデマゴギーを流布した。それに民間人が軍隊、官憲と協同した自警団が組織され少なくとも6,000人余りが虐殺されジェノサイドを行使した。

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和田久太郎意見陳述

 3・1独立闘争、間島における民衆虐殺と同様、関東大震災時の朝鮮人虐殺も、日本政府による真相究明と謝罪がなされず今日に至っており国会における真相究明と謝罪がなされることを求める。

 1923年末から翌年にかけて日本人の社会主義者や朝鮮の独立活動家は震災時の朝鮮人虐殺に対して摂政宮裕仁に責任があると武装闘争で決起をする。彼らは死刑判決で処刑されるか獄死をした。
「帝国」日本の暴力支配とジェノサイドに対し個々の活動家が責任追及のため決起した状況下、日本政府は震災時の朝鮮人虐殺を正当化するため天皇への暗殺計画が朝鮮人と日本人のアナキストにより同年に準備されていたというフレームアップをしかけ刑法七三条、大逆罪で大審院に付した。真相究明が未だなされていない。

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金子文子の生き方

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金子文子


 1928年、台湾において1932年、東京において独立活動家の皇室メンバー、天皇への闘いがあり処刑された。同年、上海における植民地支配者日本政府高官への闘いもあり処刑された。

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朝鮮独立運動家が処刑された10月10日

 1930年代以降も中国東北部でのコミューンを拠点にした独立闘争、民族主義での抗日戦争、中国や台湾、日本国内における闘争は続き「帝国」日本の「大東亜共栄圏」の版図は抗日戦争、独立闘争を担う朝鮮の人々にとって戦場であり 義烈団や民族主義団体、社会主義グループによる抗日武装闘争が組織的に取組まれた。

 治安維持法、大逆罪弾圧と日本の暴力的な植民地支配は不可分の関係である。台湾や朝鮮を侵略し植民地支配、占領していた「帝国」日本は本国の刑法を支配地において準じて適用していた。独立活動家の少なからずは「帝国」日本、天皇を攻撃目標としていた。「帝国」日本はその敗北まで戦争状態で対峙せざるを得なかった。

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治安弾圧法

 一方、朝鮮における労働者が急増、朝鮮人労働者への不当な違約金の徴収や日本人との賃金格差も極端化し賃金労働者の生活は困窮した。1921年釜山の埠頭労働者の争議を皮切りに争議は増加、なかでも1929年の元山におけるストは広がり最大の争議となった。しかし警察や日本軍400名の動員により弾圧された。朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議は日本国内でも取組まれ、朝鮮では光州学生闘争、新幹会の結成など民衆の闘争も持続された。

 大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が1938年に結成され中央本部は朝鮮総督府におかれ朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略を前にして朝鮮の民衆を「帝国」日本に組み込むため創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、日の丸の掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布。朝鮮での徴兵実施に向け1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し「国語」として日本語使用を強制した。


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by futei8 | 2010-08-01 21:16