山歩きと韓国


by futei8

11人の処刑

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『救援』紙連載

2010年12月号  32回目

大審院法廷
 
 百年前の一九一〇年一二月一〇日、管野須賀子、幸徳秋水たち合わせて二六名に対して刑法七三条、爆発物取締罰則の事件を審理する大審院、鶴丈一郎の特別法廷が開かれた。
一般傍聴人を入廷させたが開廷後すぐに傍聴禁止とし退廷させた。しかし政府関係者は傍聴し、後の法廷では選任がされていない弁護士も傍聴できた。

公判審理
 まず松室致検事総長による冒頭陳述、それに続き被告とされた宮下太吉、新村忠雄への訊問が行われた。 被告人の名と部分記述の訊問時間は弁護人平出修の「大逆事件特別法廷覚書」(『定本平出修集』収録)より引用。日付が記されず被告の名が続く場合もあるが他の資料と対照し日付を記す。

一二日は管野、古河力作(午前一一時)、新田融(一一時二二分)、新村善兵衛(一一時四〇分より一二時五分マデ)、幸徳(一時二十分ヨリ二時二十分)被告人尋問が続いた。

(注、法廷覚書では一一日と記されている)。

一三日、森近運平、奥宮健之(一一時一五分)、大石誠之助(一時一〇分)、(二時二〇分)成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三時一〇分)、崎久保誓一、成石勘三郎(三時四五分)への訊問。

一四日(午前一〇時四五分)松尾卯一太、新見卯一郎、佐々木道元、飛松与四郎(二時半)、坂本清馬(三時)、岡本穎一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治への訊問。

一五日、内山愚童、武田九平、岡本、三浦への訊問。

一六日、岡本、三浦、岡林、小松訊問と連日の集中審理であった。

証人申請の却下
幸徳は法廷の休廷日の一七、八日に弁護士宛ての文書を執筆した。無題であるが後に「陳弁書」と言われる。
裁判長は訊問が終わった時点で「自ら陳述したきことあらば陳述すべし」という。

以下の名は陳述した順と推定される。
一九日は森近、高木、宮下、新村、管野。

二〇日は古河、幸徳、成石平四郎。

二一日、高木、峯尾(午後一時)、大石。

二二日、幸徳。そして幾人かへの補充審問を終えた。

弁護活動の制約
二三日に弁護側の証人申請が行われ、二四日は弁護人の証拠書類閲覧。証人申請の補充説明、検事の反対意見陳述が行われた。しかし鶴裁判長は合議で弁護側の証人申請を全て却下した。

二五日は検事論告。平沼騏一郎が総論を展開し松室致が「刑法七三条を以て処断すべし」と全員に死刑求刑をなした。
弁論は二七日が花井卓蔵、今村力三郎。二八日、半田幸助、尾越辰雄、平出修、川島仟司。二九日に川島、宮島次郎、安村竹松、吉田三市郎、鵜沢総明、磯部四郎により展開された。
六月から一〇月の予審段階の後半で「被告」たちは弁護人選任の準備をすすめていたと推測される。平出修弁護士は八月に高木、崎久保の弁護依頼を引受け一〇月になり弁論のため資料の読み込みを始めている。   
被告たちの接見、通信禁止が解除されたのは一一月一〇日である。それ以前から特別発信で獄外の家族に手紙を出していたが「事件」のことに触れることはできなかった。


海外での抗議活動
九月二一日にロイター通信が日本における「天皇暗殺計画」として世界に記事を配信した。そして日本でアナキストが弾圧されたことを知ったエマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルらアメリカで活動をしていた五名のアナキストたちが抗議活動を展開した。ゴールドマンはロシアからアメリカに移住、ハベルはチェコ出身のアナキストであった。
一一月二二日にはゴールドマンたちがニューヨークで最初の抗議集会を開き、数百名が出席して「ニューヨーク・アピール」を採択した。駐米全権大使内田康哉あてに抗議文を送り、これを機に全米、ヨーロッパにおいて抗議行動が広がった。
日本での公判日、一二月一〇日にはロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。一二日に ゴールドマン、ハベルらがニューヨークで再び抗議集会を開き、日本の首相、桂に抗議文を提出することを採択した。
一二月一六日には岩佐作太郎がサンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開き、作家ジャック・ロンドンも支援、日本大使に抗議文を送った。
ハベルはゴールドマンや同志たちと刊行していた『マザー・アース』誌一二月号に<コウトク事件>と題して裁判と抗議行動の報告を掲載する。

記事への弾圧
大審院の法廷が開始されると新聞の発禁処分が続いた。
一二月二二日発行の『宇和島朝報』五四六号に掲載の記事「爆発物隠匿事件」は「無政府主義を賛したるもの」として、一二月二三日に禁錮3ヶ月の処分を受けた。
二六日発行の『高知月曜』掲載の記事「所謂第二の維新」は「幸徳秋水の挙を暗に賞揚した」として三〇日に発売頒布禁止差押となった。
 
不敬罪弾圧
また捜索押収の文書から不敬罪弾圧も進行した。
一〇月一九日、前橋地方裁判所、重禁錮五年、岩崎松元。
一一月四日、名古屋地裁にて判決。懲役五年、鈴木楯夫。
一一月二二日、前橋地方裁判所にて判決。懲役五年、長加部寅吉、懲役四年、坂梨春水。
一二月一日、東京地方裁判所にて判決。懲役五年、橋浦時雄。
一二月二一日、東京地方裁判所にて判決。懲役五年、田中泰、相坂佶。

2011年1月号
判決
大審院特別刑事部、裁判長鶴丈一郎と六人の裁判官は一九一〇年一月一八日に判決をなした。帝都東京における官庁街での武装蜂起計画と天皇、皇太子の殺害計画の物語を幸徳秋水の首謀による「陰謀事件」として認定した。判決理由は予審段階で検事・判事がフレーム・アップした内容の追認である。管野須賀子ら数名の天皇打倒の意思と相談が増幅された。誘導された「調書」と爆裂弾の材料とされるものが証拠である。
全ての「陰謀」を幸徳につなげ、幸徳の「無政府共産主義」に被告たちが感化された認定した。その「無政府共産主義」の内容も、議会政策を否定し直接行動を主張し暴力革命を唱え、幸徳の翻訳によるクロポトキンの『パンの略取』などの著作を所持し読んでいたという行為が語られるだけで本来の「無政府共産」の思想内容が分析されているわけではない。「クロポトキン」の名と共に天皇国家転覆の意思のシンボルにされたわけである。大審院はその思想すら語れずに「主義」を裁いているのである。
一二人の処刑
判決から六日後に刑の執行がされた。一月二四日、東京監獄にて幸徳秋水、午前八時六分処刑。新美卯一郎、午前八時五五分処刑。奥宮健之、午前九時四二分処刑。成石平四郎、午前一〇時三四分処刑。内山愚童、午前一一時二三分処刑。宮下太吉、午後一二時一六分処刑。森近運平、午後一時四五分処刑。大石誠之助、午後二時二三分処刑。新村忠雄、午後二時五〇分処刑。松尾卯一太、午後三時二八分処刑。古河力作、午後三時五八分処刑。二五日、管野須賀子午前八時二八分処刑。(時間は大逆事件研究家、神崎清の著作による)

世界の抗議活動
一二人の処刑に対して世界的な抗議活動が続いた。アメリカでエマ・ゴールドマンらが発行していた『マザー・アース』誌一九一一年二月号に同志のヒッポリート・ハベルが書いている。「悪業が行なわれた。…だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。……ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。……だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。…」
言論弾圧
判決直後から日本国内で発行される新聞に対して発売頒布禁止差押の処分が続いた。
「無政府党と政府」『東京信用日報』二十日、「 逆賊獄中の書束」『毎日電報』二一日、「逆徒の書信」『大阪毎日新聞』二一日、 「秋水と親交ある枯川の談話」『中国民報』二二日、「ザ・リーダー・オブ・ザ・ソシアリスト」『ジャパン・アドバタイザー』二二日、「幸徳と堺枯川、社会主義と無政府主義」『九州新聞』二四日、「秋水と水魚の交りある枯川の実話」『土陽新聞』二五日。

橋浦日記
二号前に紹介したが学生の橋浦時雄は押収された日記の記述の一部が不敬罪とされ起訴、裁判となり東京監獄に在監していた。
八監三三房に囚われていた橋浦は日常も含め幸徳たちとの束の間の出会いを記述し日記に残している。幸徳たちが処刑されまで短い期間であるが同じく囚われた立場として限界があるが生の断片が語られている。引用されることのない史料なのでごく一部であるが紹介をする。橋浦は幸徳や新村忠雄と面識があった。
「翌年一月三日だったと記憶している、その日運動に出ると看守はウッカリ幸徳氏のいる二四房のドアをあけて幸氏と談話していた」
幸徳の房が明らかにされている。(幸徳を幸氏と表現している)
「僕の通るのを幸氏は知らないでいたが、僕は壮健な姿を見てオヤオヤあすこにいるんかと思った。帰監の時にもドアはあいていた。幸氏も笑顔で僕を見送る。僕も見帰返る。心持挨拶するといった具合であった。その時の心地はドンなであったろう。僕はこの幸運を彼に感謝した。…」
「その後四十四年(一九一一年)一月二十二日、この日が日曜日ならたしかに相違ない。運動から帰ると二十四房があいて看守が話をしていた。……通りすがりに僕はふり帰る。幸氏ものびあがって僕を見ようとする。……両人の視線が会うと淋しい笑顔が幸氏を襲うた。この時も彼に感謝の意を表した。」
「この一月二十二日には尚お断腸すべき記憶がある。……それは新村忠雄君であった僕はあれが近い内に死刑にやられるのかと思うとドウ身振りして慰めていいのか思付かなかった。新村君は初めから了りまで鉄拳を上下にふり動かしている。僕はその意を了解して胸をたたいた。運動が了ると忠雄君はのび上りのび上がり見送るのであった。ああその昼いかに涙多かりしよ。」
「僕の対向の監房の向って左隣が成石平四郎君で…」「僕の右隣が奥宮健之君の居房で……」「三十房か二十九房かにいたのが新美(卯一郎)君で濃い髭の人物で、おハチにかぶり付いてる処をチラと見た事がある。」
「二十三日の朝の話をその後聞けば、絞殺場近処には看守が番として二、三いたそうな。そして幸徳、新美、奥宮、森近、という順に出房して病院の裏を通り十一名は殺された。…」「その日の奥宮君の出房は僕も知っていた。…」(処刑日は二四日であるが獄中では後に伝聞で日付が誤って伝わる)。
東京監獄
 監獄の日常も描写され、落書きの文言も引用がある。橋浦は「被告」とされた同志たちの様子を少しでも記録しておきたかったのであろう。
「運動時間はハッキリ定ってもいなかったろう。…運動場の板塀には色々なイタズラが書いてある。特に二十六人組(大逆事件被告)のイタズラは目に付いた。アナキストなんかと書いてある。…」
「午前中に入浴のある時もある。而し大抵午后であった。入浴日は土曜日と水曜日であった。風呂は三つに分れていた。或は四ツであったかも知れぬ。…正午頃に中食となる。中食には何か煮しめたものを食わせる。塩鮭や豚汁は仲々甘味かった。晩食も大抵は汁であるが時には焼いたゴマ塩ばかり舐めさせられる時もあった。夜も暫くして、やがて就床の号令と共に寝るのである。蒲団は上下二枚で、雑居房は大蒲団一枚だそうな。」

手記
二五日に処刑された管野須賀子の手記を今日なお読むことができる。引用をする。「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず 自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものこれ。明治四十四年一月十八日須賀子(於東京監獄女監)。
 判決の日の朝の描写から始まる。そして判決を聴き怒りが表現されていく。
「明治四十四年一月十八日曇、死刑は元より覚悟の私、只廿五人の相被告中幾人を助け得られ様かと、夫のみ日夜案じ暮した体を、檻車に運ばれたのは正午前…読む程に聞く程に、無罪と信じて居た者まで、強いて七三條に結びつけ様とする、無法極まる牽強付会(こじつけ)が益々甚だしく成って来るので、私の不安は海嘯の様に刻々に胸の内に広がって行くのであったが、夫れでも刑の適用に進むまでハ、若しやに惹かされて一人でも、成る可く軽く済みます様にと、夫ばかり祈って居たが、噫、終に…」
「新田の一一年、新村善兵衛の八年を除く他の廿四人は凡て悉く之れ死刑!」二人は爆発物取締罰則だけが適用され有期刑であった。
「実は斯殷うも有うかと最初から思わないでは無かったが、公判の調べ方が、思いの外行届いて居ったので…今此の判決を聞くと同時に、余りの意外と憤懣の激情に、私の満身の血は一時に嚇と火の様に燃えた。弱い肉はブルブルと慄えた。噫、気の毒なる友よ。同志よ。彼等の大半は私共五、六人の為に、此不幸な巻添にせられたのである。私達と交際して居ったが為に、此驚く可き犠牲に供されたのである。無政府主義者であったが為に、圖らず死の淵に投込まれたのである」
 この率直な心情の吐露を読むと管野は大審院の審理内容にある程度の期待をしていたところがあったようだ。もちろん自身のことではなく、爆裂弾のことも知らない二〇人余りの同志たちが無縁であったことを誰よりも承知していたからである。
 続けて最後の別れのあいさつができたことを記している。
「……記憶せよ、我同志!、世界の同志!!…「驚ろいた無法な裁判だ」と、独り繰返す外は無かった。…さらば、廿五人の人々よ。さらば廿五人の犠牲者よ。さらば!。「皆さん左様なら」私は僅かこれ丈けを言い得た。「左様なら…」「左様なら…」太い声は私の背に返された。……「万歳──」と叫ぶ──抹消]叫ぶ声が聞えた。多分熱烈な主義者が、無政府党万歳を叫んで居るので有う。(この項続く)。
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by futei8 | 2011-01-24 09:06