山歩きと韓国


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萩原恭次郎2

四 神谷暢と渓文社

 渓文社の創設は竹内てるよの存在抜きに語れない。直接の契機は竹内の詩集を刊行したいということであった。

一九二八年、神谷は竹内との共同生活を滝野川の八百屋の二階、四畳半で始める。神谷は〇五年、東京生まれ、父親は医者であったという。二三歳の神谷と竹内の出会いは詩作活動を通じてであろう。同年一二月三一日、川崎に住んでいた詩人であり市会議員にもなった陶山篤太郎経営の川崎新聞に神谷が印刷見習いとして通うことにした。そのため竹内と神谷は川崎と対岸の「六郷土手」に移る。東京府荏原郡六郷高畑六四四。竹内は前出の著作で渓文社の最初の地も回想し、その家は六郷川の川原にある土手の下で、よくコスモスが一杯にさき、そして川にはいつも少し風があったとささやかな多摩川土手の自然をなつかしがっている。そして病いが続き神谷との共同生活に触れ、「私はいついゆるとも知れない病床にいたし、私とその年、一緒に生活しはじめたKという友達、この人と私は今も親密に交際している」と、戦後も共同生活が続いていると述べている。六郷高畑は現在の大田区西六郷である。多摩川が大きく湾曲して形成された河口州になる。神谷のこの六郷時代を描写した詩が二人の生活をよく表現している。

詩「二人 」抄                  神谷暢              

米箱には米はなかった /お米を買ふ金はなほさら無い /どうしたらいゝかを二人は考えた /俺達は貧乏を泣かない /金持といふことが何んの値打ちでもないと同じやうに /貧乏といふことは何んの誇るべき値打ちでもない /リヨウマチが俺を仕事から引き離した /俺は永いこと寝てゐた /俺は痛む足をバスケットの上へのせて寝たなりで童話なぞ書いた /身體の動かない彼女も熱や痛みと戦ひながら原稿を書いた/…/省線のがたがたに震へる二軒長屋の三畳の部屋で /俺達は段々落ち込んでゆく貧乏を感じてゐた /俺達は俺達の全力を合はせて生きてゆかうと強く思つた /俺達は貧乏を恐れまい /俺達は朗らかでゆかう。

竹内だけではなく神谷まで病気持ちで生活費を稼げないとある。竹内には草野心平らが「死なせない会」を設立し高村光太郎や尾崎喜八は現金での支援もしていたらしい。秋山は渓文社に関して「昭和四、五年頃からその存在ははっきりと記憶にのこっている。そこから刊行した詩集など記憶につよいものがあり、中浜哲の『黒パン党宣言』その他が発禁になったことも知っている…」と神谷との対談で語っている。また「アナキズム系詩人の一拠点のように見なされることになったのである。自分たちで刷り物をつくって撒く。自分の手で出版して売る、分ける。仲間のものを印刷する。 発禁になる前に配ってしまう。……」と渓文社の印象を残していた。神谷は「最初に刷ったのがこれなんだ」と、活版の詩集『叛く』を示し「寝てばかりの竹内がよろこんで、元気になったよ」と懐かしむ。この六郷で、仲間に呼びかけ活字を購入し神谷自身が学んだ活版印刷技術を基に、後に「けい」の漢字は渓と改めるが啓文社として始められる。頁物を制作できる九ポイントと六号活字が揃ったという。秋山が語っているようにアナキズム的思想の啓蒙。詩集、文集、童話、パンフレット、小新聞等の発行と印刷所の経営を目指したのである。「次がまた竹内の『曙の手紙』こいつは警察から注意されたね。それから別にガリ版で『相互扶助』という雑誌も二号出した。クロポトキン思想のわかりやすい紹介を狙ったものなんだ。そしたら警察がうるさくなって、 だからとつぜんのように今の世田谷区の赤堤に越した。」と移転の原因を語る。「渓文社の仕事はそれからといっていいだろう。赤堤に移ってからは精神的に、貧乏の中でやったよ」と赤堤時代が本格的な渓文社の活動時期としている。〈ききがき『渓文社』より〉

権力や支配のない社会をめざすアナキズムにも考え方がいくつかある。アナキズム運動史を著している小松隆二は「アナキズムにあっては人間をすべての発想・行動の根幹にすえることから出発する…」と語っている。また三三年には「なにものにも従属しない創造的な文学運動」を主張した解放文化連盟が発足、恭次郎、岡本、小野、秋山らが参加。小松は「運動全体では沈滞しつつあったが文学では活気をおびていた」とも述べている。渓文社のたちあげと出版活動はその一翼を担っていた。

渓文社の刊行物の幾つかを複写と原本で確認することができた。その刊行データを記しておく。

『叛く』竹内てるよ詩集 活版刷り 
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著者 竹内てるよ 昭和六年四月一日印刷 昭和六年四月一〇日発行 定価五〇銭 東京府下六郷町高畑三〇七 発行謙印刷者 神谷暢 発行所 渓文社印刷所出版部 自由叢書第一編

 題字は高村光太郎の墨書。高村はすでに著名な芸術家であり詩人であったが、一九二五年、草野心平が訪問し交友が始まりそれを機に他の若い詩人たちとも交流をするようになった。

この年、『叛く』の奥付で確認できるが四月までは渓文社は六郷の住所。赤堤に移転した正確な月日は不明である。なぜ赤堤なのか。前述の対談で「警察がうるさくなって」という理由もあり移転は迫られていた、六郷は長屋であり人の出入りはすぐ判ってしまう。竹内や神谷自身の病状もあり少しでも環境がいいところを探したのであろう。赤堤の借家はもともと病気療養のために建てられた畑の中の一軒家である。空いてからも敬遠され、借りてがなかなか決まらなかったのだろうか。また数年前に小田急線が開通しているとはいえ冒頭の竹内の回想を読む限りではまだまだ不便な地域である。したがって家賃もそれほど高くはなく借りられたのではないか。竹内は神谷との「共同生活」の前は代々木上原辺りに住んでいたというので小田急線や世田谷への土地鑑も多少あったのだろう。

萩原恭次郎詩集『断片』活版刷り

昭和六年一〇月六日 印刷 昭和六年一〇月一〇日発行

発行謙印刷者 神谷暢 東京府下松澤村赤堤一八六 定価五十銭

 前出の神谷の『断片』刊行の回想では高村に表紙カットの相談をしたことを述べている。

「ボルトのカットを画いた時は、高村光太郎さんの所ヘ持っていって、見てもらった。光太郎さんは、時計屋が修繕の時に使うような片眼で見る小さい筒のような眼鏡でそれをみ終ってから《まあ、いいでしょう》と言われた。心細いが、やや安心もして、それを使うことにした」

『第二曙の手紙』竹内てるよ詩文集 活版刷り 

題字 高村光太郎 昭和七年四月六日印刷 昭和七年四月一〇日発行 東京府下松澤村赤堤一八六番地 印刷人発行人 神谷暢 発行所渓文社 定価五十銭

三三年の初めか、神谷と竹内は住まいと渓文社を分離させ、北沢に一軒家を借りている。しかし若い同志たちの無軌道な振舞いで、維持することは困難になり再び、赤堤に渓文社を戻している。北沢時代は一年も続いていない。

 また東京の区制が拡大し世田谷区が誕生した時期にあたり、渓文社刊行物の奥付もそれにつれて変更されて行く。

『花とまごころ』 竹内てるよ詩集 活版刷り 

定価五十銭 昭和八年一月二五日印刷 昭和八年二月一日発行 発行謙印刷者 神谷 暢 東京市世田谷区北澤三ノ一〇二六 発行所 渓文社

『葡萄』竹内てるよ作品集 謄写刷り 
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昭和九年二月三〇日印刷 昭和九年三月一日発行 東京市世田谷区赤堤町一ノ六六

渓文社の刊行書に掲載された広告、著作者関連の文献、秋山清の調査で渓文社刊や発売元となっているものを次にあげる。

中浜哲詩集『黒パン党宣言』謄写刷り。発売禁止処分。         

 中浜哲は当時ギロチン社事件の首謀者として有名であった。詩二篇〈黒パン党戦言〉〈黒表〉を収めている。渓文社に協力していた西山勇太郎が制作、刊行した。秋山がかつて所蔵し回想で内容に触れている。タイトルは戦を宣に変えている。

 中浜の本名は富岡誓。福岡県東郷村、現北九州市門司区生まれ。二二年に「ギロチン社」を古田大次郎らとたちあげる。大杉栄の虐殺後、後に広く知られる「杉よ ! 眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。二四年三月、恐喝犯として逮捕され、大阪控訴院で二六年三月死刑判決となり四月に絞首される。中浜は処刑されるまで大阪刑務所北区支所の独房で詩や回想記の執筆を進め、著作集が冊子として二五年一二月に刊行される。『原始』『文芸戦線』『解放』誌やアナキズム運動各誌紙に詩や評論が掲載される。

北達夫詩集『同志に送る歌』活版刷り

昭和七年十二月廿五日印刷 昭和七年十二月三十日発行 価十五銭     著者 北達夫 発行兼印刷人 神谷暢                  発行所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 渓文社                  

 北は本名、宮島義勇、一九〇九年茨城県菅野村生まれ、学生運動からアナキズム系の運動に参加。神谷、岡本らと交流、三〇年、アナキスト詩誌『死の旗』同人となる。詩集は神谷に勧められて刊行。                          

一九三一年度『アナーキズム文献出版年報』発禁 詳細不明                   

マラテスタ『サンジカリズム論』 (渓文社文庫)詳細不明                 

マラテスタは著名なイタリアのアナキストにして理論家。

竹内てるよ童話集『大きくなったら』渓文社満二ケ年紀念出版 活版刷り   昭和七年 十一月二十日印刷 昭和七年十一月廿五日発行 東京市世田谷区赤堤一ノ一八六 発行者印刷者 神谷暢                        

堀江末男小説集『日記』活版刷り

昭和九年十二月十日印刷 昭和九年十二月廿日発行 定価五十銭 発行者神谷暢 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 印刷者 吉本孝一 渓星社印刷所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八三 発行所 渓文社 東京市市世田谷区赤堤町一ノ一八六                    

堀江末男は一九一〇年大阪府寝屋川村生まれ、一九二八年京阪電気鉄道に勤務、三三年、『順風』(小野十三郎らの)同人となる。戦後は『コスモス』に参加。詩集『苦悩』『おかん』がある。奥付の中で神谷以外の印刷者の名が記されている。吉本孝一である。住所も三番地異なり渓星社という名も印刷所に付されている。吉本は群馬出身のアナキスト系詩人で萩原恭次郎と交流がありそのつてで一九三三年秋、渓文社で働き始めた。

フランシスコ・フェレル『近代学校・その起源と理想』(発禁) 渡部栄介訳   詳細不明                                 

フェレルはスペインの教育運動家、アナキスト。一九〇九年、政府のモロッコ派兵反対闘争に参加、逮捕され世論の反対にもかかわらず一〇月に銃殺される。子どもの自由意志を尊重する教育理論は自由学校につながる。

五 草野心平と渓文社                   

 草野心平は中国の大学に学び在学中から同人詩誌『銅鑼』を刊行した。草野と交友があった詩人たちが参加。日本に戻ってからも同誌の刊行と詩作を継続していた。その頃に草野は竹内と出会っている。「一九二七年一月、赤羽駅から新潟行き列車に乗るのを木村てるよが見送る(『草野心平全集』年譜)」しかしこの年に関しては草野の記憶違いと思われる。草野の回想では「…新しく同人になった木村てるよが喀血したと神谷からきいていたので、まず彼女を見舞ってから、東京をしばらく離れようと思った。幡ヶ谷あたりだった木村てるよの間借り部屋はわかったが、彼女はいなかった。机の上には長唄でもあるらしい台本があり、その写しが並んでいた。当時彼女は一枚五厘位で、その筆耕をやっていたらしい。帰りの道で彼女にあった。訳を話すと彼女は赤羽までおくるという。断ったがきかないので彼女の言葉に従った。」と述べている。(『わが青春の記』)。竹内は三四年発行の『宮澤賢治追悼』誌に〈午後八時半の透明〉という追悼文を執筆。その文中で「佐渡へ立つといふ夜のステーションの汽車をまつあひだ…」と草野から賢治の芸術の世界の話を聞いたというエピソードを記しているが何年かは記されていない。草野の年譜には「新潟行き」がもう一つある。「一九二八年五月、再び新潟へ、寒河江真之介の〈カフェ・ロオランサン〉の食客となる」とある。『銅鑼』誌一五号(二八年五月刊)には「木村(竹内)てる代、坂本七郎が同人に加わると記載」。既述したが、竹内は『詩神』に初めて作品が掲載さたのが二八年であり、そこから詩人たちと交友が始まる。それ以前の二七年一月に草野と会うというのはおかしい。草野が二八年と混同しているのではないか。

 二八年、草野は坂本七郎のすすめで前橋市に転居。一二月になり個人詩誌『学校』を創刊。二九年、『学校』は二月から続けて刊行され月刊ペースである。竹内は五号まで毎号寄稿。五月になり草野は竹内の詩を集め『叛く』と題し、自らのガリきりで銅鑼社(上州前橋神明町六九)から、謄写印刷の百部限定で刊行する。印刷人は坂本七郎。表紙は毛筆で書き、「製本は女房と二人で」と回想。そして後に第一書房から出版された詩集で竹内が有名になるが、その機縁が『叛く』であったことを聞き「私はうれしかった。」と語っている。(『火の車』〈前橋時代〉)。

 草野は自らも貧乏ではあったが竹内への支援を惜しまなかった。神谷との交友は元々ありそれが渓文社との深いつながりになる。自著を刊行するだけではなく、すでに銅鑼社の活動を止めたという理由もあるが同社刊の詩集も渓文社から再版している。草野が関わる刊行書を記す。

草野心平詩集『明日は天気だ』謄写刷り

草野は東京に戻り焼き鳥屋をしながら詩作を続けた。そして屋台を引きながら突然に詩集刊行を決意する。それが三一年九月刊の『明日は天気だ』。

「…八月二六日の晩。自分のやってる焼鳥屋の屋台で突然本を出すことに決めた。附属品や自転車を買いたいためである。…一九三一年九月一日。曇後晴。」と刊行が突発であったことを『明日は天気だ』の後記から回想している。謄写版刷り、百部発行。制作過程も、普通の詩集としてなら約二百頁分位を朝からネジリ鉢巻きで原紙を切り、夜は刷り綴じと一日でやってのけたと語っている。『わが青春の記』。草野は中国での『銅鑼』刊行以前から謄写刷りで私家版の詩集を出していた。前橋でも『学校』誌は草野が原紙をきり謄写刷りである。したがって自分の詩集のためならば一日で作業を終えてしまうのは造作もなかったであろう。渓文社は制作では関与していないようである。草野は自身で謄写版を用意できたしガリきりの技術は慣れていたからであろう。つまり渓文社の連絡先を草野は必要としていたということである。

草野心平訳『サッコ・ヴァンゼッチの手紙』活版刷り   昭和七年九月一日印刷 昭和七年九月五日発行 発行者 東京市外松澤村赤堤一八六 神谷暢 発行所 東京市外松澤村赤堤一八六 渓文社 定価十五銭送料二銭                              

サッコとヴァンゼッティはイタリア系アメリカ人。二七年八月、全世界の釈放運動にも関わらずフレームアップ事件で処刑された。東京においても同月釈放のための集会がもたれアメリカ大使館への抗議闘争となり恭次郎らが検束されている。七七年に時の州知事が無罪宣言をするが、それを受け草野は回想、詩にしている。                               

坂本遼詩集『たんぽぽ』活版刷り

(銅鑼社刊の再版) 昭和七年 発行 府下松澤村赤堤一八六                 

元本の銅鑼社版を草野が回想。元本は昭和二年九月の発行。著作者、坂本遼として兵庫県加東郡上東条村横谷の住所、発行所は土方定一の住所を銅鑼社としている。草野の序詩と跋、原理充雄も「坂本遼の手紙」を序として執筆している。                        

三野混沌詩集『ここの主人は誰なのか解らない』

原本は確認できていないが、草野と三野とのむすびつきで刊行したと推測。三野混沌は本名吉野義也、一八九四年福島県平窪村生まれ。詩を書き始めて山村暮鳥を知る。一九一八年、早大英文科に入学するも翌年開墾生活に戻る。一九二四年、草野を知り、『銅鑼』『学校』などの同人となる。

『宮沢賢治追悼』(次郎社刊) 活版刷り

昭和九年一月二十五日印刷 昭和九年一月二十八日発行 定価五十銭 送料二銭 編集兼発行人 東京市渋谷区大山町二十三番地 草野心平 印刷人 東京市芝区浜松町一丁目十五番地 鷲見知枝麿 発行所 次郎社 東京市本郷区向ヶ丘弥生アパート内 発売所 東京市世田ケ谷区松沢村赤堤一八六番地 渓文社 振替東京三六五九〇番 B五判紙装・グラビア肖像写真一葉・目次二頁                         

発行所は当時の逸見猶吉の住所。執筆は旧銅鑼社同人が中心。神谷暢「光の書」、竹内てるよ「午後八時半の透明」を収載。渓文社の住所表記は旧に世田ケ谷区を付しただけの誤記であろう。               
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by futei8 | 2011-06-07 08:19