山歩きと韓国


by futei8

萩原恭次郎3

六 坂本七郎                              二人を支えた詩人で坂本を忘れることはできない。彼もまた詩集を残さなかった。しかし既出の個人詩誌『第二』が各地の文学館に所蔵され読むことができる。一九二九年当時、八王子に住んで居た坂本は六郷の竹内と神谷の家をしばしば訪ねた。坂本は『弾道』二号に竹内を主題にした「第三夕暮の詩」を寄稿している。  

〈第三夕暮の詩〉抄

掲示は白く分倍河原/南部鉄道へ乗換駅/この武蔵野西北隅の/雲に濡れる一小駅に/汽車を待つのはおれ一人か/冷いベンチに身を凍らせて/目を落とす、眼前を走る鉄のレエル──/荒涼の涯の川崎市外/煙に澱む六郷川/そこに友がいる、病み闘う/この寒風の凛烈にも/挫けぬ、氷河の床に燃ゆる人……………

『第二』は謄写刷りで六〇部前後の印刷、二九年に九号まで発行していた。坂本は技術者であり放浪の人であった。 坂本の「夕暮の詩」には、第一から第四まであり、第一は八王子の織物女工たちを、第二は工場法実施を、第四は十六歳の電話交換手をテーマにしている。坂本は恭次郎とも親しかった。〈「思い出断続」より〉 「………その年の大震災後、駒込千駄木蓬莱町の大和館で、はじめてわたしは萩原恭次郎に会ったのだが、そのときは、お互いに、ニラミ合っただけで、ろくに口はきかなかった。」

 編集記を読んで行くと、二九年の坂本七郎の奮闘が浮かび上がる。

「第五号の詩をガリ板で二十頁分書き終へたのは土曜日の夕刻であった。すでに暗くなった窓の外に眼をやって、僕はくたびれた手を休めた。今夜は尾形君の詩集の会があるのだと知っていても一銭も持っていない僕はどうしやうもなかった。…午後一時から七時までぶっつづけでガリガリやった。そしてやっと終へた。何よりも理屈よりも僕は今日の自分を信じたい。六月八日」

坂本が如何なる事情で、この時期経済的余裕がなかったのかは不明である。技術者として八王子で働いていれば、最低限の収入はあったのだろうが、放浪の人でありそれまでの生活での借りもあったのかもしれない。謄写刷りとはいえ『第二』を毎号六〇部刷り郵送していたが、多くの仲間から購読料を得るのは困難であったろう。また神谷たちへも支援していたのかもしれない。いずれにしろ電車を乗り継ぎ、出版会に参加する余裕はなかったのは事実である。参加できない寂しさをガリ版に向けていた。また七号の後記には「『第二』六号の、竹内、神谷両君の作品には誰れも打たれました。岡本潤君からは直ぐ手紙が来ました。」と二人の六郷での生活とお互いを描写した詩に触れている。そして竹内の「午後から発熱して分からなくなるから、熱の出て来ない内に急いでこれを書いた」という七号の詩にも言及している。

 続いて、尾崎喜八が竹内の詩の批評を書き、自著を出版し寄付するということも記されている。渓文社の二人への応援に満ちている。秋山清はこのようなヒューマニズムの内面にある「思想的弱さ」を批判しているが、この時期に凝縮した相互扶助的な精神はそれぞれの生きる糧となっていたことも確かと思われる。

七 詩集『断片』

 再び、神谷の回想に戻り渓文社の一室。

 恭次郎は「これはうまいんだ!」と言いながら、いろり火で生がを焼き味噌をつけてぼりぼり食べている。神谷は「他に何も食べるものがなかったのだから、これをたべるより仕方がなかったのだが…」と記す。恭次郎は「断片」の原稿を示しながら詩集の体裁に関し最低限の希望を話す。「出来上がりの厚みが出るように」と。

 材料費は恭次郎が先においていったが、制作にあたり神谷にとって余分な出費はおさえなければならなかった。秋山の回想によると赤堤の渓文社を一度訪ねた際に部屋に活字が広げてあったとある。しかしこの時期理由は不明だがそれら活字、印刷機等、印刷に必要な一切のものは仲間である淀橋(現在の鳴子坂上辺り)の西山勇太郎のところに置いてあったという。そのため赤堤から淀橋通いがはじまる。「それこそ、雨の日も風の日も、通いつづけた。日日の食費にも事欠くような時であったので、毎日通う十銭の電車賃も心もとないとあって、歩いて通った。………」と語る。

西山は一九〇七年に東京で生まれ、小学校卒業後に木村鉄工所に見習工として入る。病気になり回復後は事務員として住み込んでいた。二四年、辻潤の訳でシュティルナーの〈唯一者〉の思想に触れ、放浪の人、辻潤の滞在先として便宜をはかっている。三一年、『叛く』により竹内てるよ、神谷暢を知り渓文社の活動に協力する。三四年、雑誌『無風帯』を刊行、辻、竹内、岡本潤らが執筆。辻潤追悼を『無風帯ニュース』で企画。

西山は生活記録の中で「一九三一年の初夏、わたしの薄ぐらい埃とごみの部屋の中で、神谷暢君が活字を拾って組んで…」(三八年の項『低人雑記』三九年発行、無風帯社刊)と回想。『神谷は恭次郎の打ち合わせを秋としているが、『断片』の一〇月刊から逆算しても、打ち合わせの季節は西山の初夏のほうが正しいのではないか。西山の回想は七年後、神谷の回想は三〇年余り後である。

 万年床の敷いてある暗い部屋で昼も電灯をつけて仕事をしなければならなかったと神谷は描写している。「活字をひろって、組んで、それを小さな手きんで一頁ずつ印刷していった。厚ぼったい、色のきたないちけん(地券)紙に刷った」

しかし刷りあがった後、製本段階でうまく行かないことが判明する。製本屋に頼んだが、「出来上ってみると、ゴワゴワしていて、開いて見るのに、見にくいものになってしまった」とある。神谷は開いて見られるように糸かがりの製本を頼むつもりであった。しかし小さな製本屋はそれが出来ず上から針金どめにしてしまったという。手きんで一頁ずつ刷ったのが失敗であった。印刷だけの技術は習得したのかもしれないが、書物を制作する様々な過程を学んでいなかったのではないか。三五年後の回想でも詳しく記しているから、相当に心残りであったのだろう。

詩集『断片』が手元にある。

 確かに現実の詩集『断片』を手にして頁をめくるのは苦労である。本文紙が固い紙なので両手を使い、普通より少し力をいれてようやく半開きという始末である。完全に折り曲げることは不可能ではないが繰り返すと痛んでしまう。しかし固い紙だから保存には耐えたのではないだろうか、背が痛む以外は頑丈な詩集である。「いろいろの不満もあったとはいえ、出来上がったときは、何んとも言えぬうれしさだった。真白い表紙の汚れるのを恐れながら、梱包して、前橋ヘ送った。折返し、恭次郎君から、よろこびの手紙を受取って、安心した。…甲州猿橋にて。六六年九月」と神谷は回想をしめくくっている。

 恭次郎も頁を開くのに困難を強いる詩集は内容に合っていると思ったのではないか。タイトルも最初は『鉄の箒』とつけたかったようであるから、頁を繰り読むという行為自体も意識化する固い紙はよかったのではないか。

『断片』への書評を萩原朔太郎が執筆している、それは、より内奥な意志をもつところの、静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、そしてその怒を書くところの抒情詩だ、と言い切り、僕は所謂アナアキストではないけれども、詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、全部残りなく同感できる、と絶賛である。また萩原恭次郎君と僕とは、偶然にも同じ上州の地に生れ、しかもまた同じ前橋の町に生れた、と故郷の同一性から語り、『死刑宣告』を評価した後、「今度の『断片』を読んでもまた、同じく或る点で共通を発見し、芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。最後に再度繰返して、僕は詩集『断片』の価値を裏書きしておく。…」と支持し全面的評価である。(〈詩集『断片』を評す〉『詩と人生』一九三二年三月号) 

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八 再びの赤堤

 一九三一年、渓文社の赤堤移転の年に始まった日本国家による中国への侵略も本格的にすすみ、三〇年代半ばになると戦時国家の状況下でアナキストたちにも治安維持法弾圧が続いていた。詩人たちは自らの思想を自由に表現できなくなり、ことばの自由は奪われ詩誌刊行は不可能となった。渓文社の活動も一九三四年に停止する。そのような状況下、第一書房の長谷川巳之吉が竹内のヒューマニズムに訴えた詩を中心に編集、順次刊行し好評を得た。『静かなる愛』四〇年、『悲哀あるときに』四〇年、『生命の歌(詩文集)』四一年『美しき朝』四三年と続いた。四〇年代以降は病状も回復傾向にあり、執筆活動もさらに盛んになり他の出版社からも刊行が続いた。それにつれて竹内の生活にも変化が起きた。詩集の刊行が続き一定の部数が売れると竹内は借家だった家を購入する。そして赤堤の地も変わりつつあった。「このあたりが町になつた。…庭は、私のたんせいで作つた。…植木を一本かうのに、私の詩の稿料であてたというのである。柿を一本買うのにあの詩、椿を一本買つたのはあの童話。というように、ねていて何の楽しみがなかつた私は、そうした収入で庭木をかい集めていた。」




そして故郷前橋に戻り生活も落ち着いた恭次郎は戦争国家を高揚させる詩を発表、かつての仲間たちを驚かす。しかしその広がった波紋を知ることなくしばらくして病死、数え年四〇歳、三八年のことであった。数年後、仲間の詩人たちは沈黙するか、恭次郎のように国家の側に身を寄せた詩を作る。高村光太郎もそうであり、竹内もその一人であった。恭次郎の追悼会は前橋と東京で開かれている。出席者の名が回想されているが、そこには竹内の名は無かった。

しかし前出の戦時下に第一書房から刊行された詩集に「木いちご」という詩が収載されている。初出の記録も解説もないが、恭次郎との赤堤での出会いを回想、追悼していることに間違いはない。

赤堤を竹内と恭次郎が連れ立って歩いている。「みどりいろの電車」とは世田谷線の電車ではないだろうか。「豪徳寺」駅で待ち合わせとしても世田谷線は横切ったのであろう。三一年、恭次郎は二度、赤堤の渓文社を訪れている。二度目の渓文社訪問では竹内が具合がよく、恭次郎を駅の方まで迎えに行けたのだろうか。いずれにしろ「駅」と渓文社をつなぐ道筋の情景を詩っているのは間違いない。木いちごに恭次郎への追憶を込めた竹内の心情はいかなるものであったか。子供と別れ病気に苦しんだ孤独の時代の後、アナキスト系詩人たちとの交友の時代を思い起こしていたのか、日本という国家の変貌か、あるいは竹内を含めての詩人たちの変貌をも恭次郎の死と重ねて思い返していたのか。

詩〈木いちご〉               竹内てるよ

雨にぬれたみどりいろの電車は/おもちやのようではないかと笑つて/並木みちの下かげに/私が木いちごのみをひろつたとき/よわいからだで/洗わない木のみをたべていゝかと/やさしく近よつてたずねたる人/一生を四十年にちゞめて/嘗て 畏敬せられ 又親しまれつゝ/赤城山のみえる町にて かの人は死んだ/木いちごの白い花が咲けば そのとき/木いちごのオレンヂいろの實がなれば/また そのとき/亡き人は/かく たくましき一生の中なるやさしさを/ほのかに 私の胸につたえて来て/木いちごの舌にころがす ほの甘きまで/一つの悲哀 なお更に/尊く切なかりしかの生涯の思い出とした


二〇〇四年六月、赤堤に移って半年がたった。あの渓文社の時代から七〇年、電車はみどり色ではなく、木いちごも見ることはなく、渓文社に拠った詩人たちもすでにいない。二人のすまいと渓文社はここら辺であったのかと住宅地に変貌した街を通るたびに思う。答えられる「場所」も「人」も不在である。時も過ぎ去ったが渓文社があの時代に刊行した書物で詩人たちの意思だけは残されている。今、この国の振る舞いは七〇年前と同じになってきた。国家が強権を行使するとき、どのような生き方があるのか。残された書物から詩人たちが国家に抗した時代の生き方を読むことは可能である。

参考文献 (本文中に記していない文献)『萩原恭次郎全集』静地社刊、一九八〇年・八二年発行。『草野心平全集』筑摩書房刊、一九七八年─八四年発行。金井新作、三野混沌、堀江末男に関しては『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版刊、二〇〇四年発行を参照。吉本孝一に関しては『吉本孝一詩集』(一九九一年一二月発行)寺島珠雄編「吉本孝一詩集刊行会」刊を参照 。
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by futei8 | 2011-06-07 07:20