山歩きと韓国


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麺麭の略取

麺麭の略取

アナキズム文献翻訳事始め 

98年10月21日メモ99.2.28 

一冊の古い書物を所蔵している。印刷され配布されてから90年の年数を経ている。

表紙は厚手の上質紙で本来は白であったのかクリーム色であったか判然としない。

最初の所有者が入手してから読み込まれ長い歳月を耐え抜いた痕跡が薄い焦げ

茶色に変色した表紙に現れている。

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本文頁の最初には「明治42年?月」読み始め

の月日が記されている。何番めかの所有者かは不明だが蔵書印も押されてある。  

この書物自体のたどった経過も大いに関心を引くが、英語版原本から翻訳した人物

は時の国家権力により絞首台に送り込まれた叛逆の思想の体現者であった。  

表紙には『パンの略取』、クロポトキン著、平民者訳としか記されていない。

なによりも訳者名を平民社訳とせざるを得なかった当時の出版状況は厳しいもので

あった。  

 最初の出版から60年を経て岩波文庫の一冊として初めて単行本として刊行された

時に訳者名が幸徳秋水と著わされた。  

 クロポトキンの著作は当時、大杉栄、大石誠之介も部分的に訳していたが一冊の書

物としてまとめられ、出版されたのは、この「明治」43年1月31日刊平民社版が最初で

あった。  

 この地理としては日本列島と呼称される地域で革命思想としての無政府主義が意識

され、運動の潮流として形造られ始めた時期は、1906年から08年といえるだろう。  

 その中心人物が幸徳秋水であり、この『麺麭の略取』の翻訳が無政府主義の考えが広

がることに大きな力をもっている。

 坂本清馬は「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」で語っている。

「12月の半ばであったカ、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが数日続いた。」


 メモ追加(2011.6.10)
 先月、「大逆事件」の弁護団の一人、平出修(しゅう)弁護士の孫である平出洸(ひろし)さんの講演「大逆事件と石川啄木」を企画した。
 平出洸さんは私が参考文献として持参した『麺麭の略取』と『平民主義』を講演で紹介しつつ、啄木が詠んだ

 あかがみの  表紙手擦(てず)れし  国禁(こくきん)の書(ふみ)を  行李(かうり)の底にさがす日   

 に関してその「書」は、『麺麭の略取』とする研究者、あるいは『平民主義』とする研究者に分れていると説明をした。
 私は数年前までは『平民主義』の表紙画像はモノクロでしか見たことがなく、原本を入手してはじめて同書の表紙が鮮やかな赤であったことを知った。以来、啄木の「書」は『平民主義』であると思い込んでいる。


同書は一九〇三年末から〇六年末にかけて平民新聞等に執筆した論文集である。一九〇七年四月刊。

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 以下、引用のみ。

「パンの略取と正進会」『アナキストクラブ』収載       綿引邦農夫

「まず、大正八年十月ごろ、布留川桂は、かねて知っている元園町の堺利彦宅からクロポトキン著・幸徳秋水訳『麺麭の略取』一本を手に入れてきて、当時正進会中での能筆家、小林進次郎君(のちに同志数名と労働者として最初のソビエトロシア入りをした、現在も植字工として働いている)に、これの複写をすることを頼んだ。当時、活動的な組合員の大部分は文選工なので、これを採字して活版化し大量に流すことはお手のものだが、いずれもその筋の要視察者とされている連中なので、目につきやすい活版化、謄写版化の方法をさけて、わざと非能率的な複写によることにした。しかし、これはかえって有効であった。」  

 「うすでの丈夫な日本紙の間にタンサン紙をはさみ、これを六枚かさねて書いたのだが、上部は傷がつき、下部は写りがわるく、結局中の三、四枚がものになる。この仕事は容易ではなかったが、かれの旺盛な闘志は、一冊大体三十四字詰め、二十四行、百九十四枚のぼう大なものを一回二十日ないし一カ月かかって仕上げ、一年余のあいだにおよそ十回は繰り返したろう…と本人もいっている。これを二円で分け合ったのだが、材料費にもあたらない。  
 
 これがさらに、各社の熱心な人々によって複写され、極秘のうちに社内に配られた。 この方法は、震災後の大正十三年ごろまで続けられた。  このほか、大正十年ごろ本物の活字本が十余冊某所から入ってきたので、その全部を合算すれば、おそらく百部以上行き渡ったことと思う。それがただ読むだけでなく、各社内で筆写を中心にさかんに討議がおこなわれるようになった。  

 大正九年四月には、機関紙『正進』を創刊した。その紙上には、はやくもクロポトキンの学説が載せられている。  わずか、五百人に充たない組合に百部が渡っとするとざっと五人に一冊ずつが渡ったことになる。  

 大正八年十二月九日に産声をあげた正進会は、翌九年四月信友会と提携して、労働組合による日本最初のメーデーを発企、実行し、また革新会の要求した八時間二部制、最低賃金制、月四回公休の公的実行を新聞資本家側に執拗、果敢に要求し、九年九月には報知新聞社でケース転覆事件をひき起こした。


 略  大正十年ごろの夏のあるむし暑い夕方
「今夜行くところがあるから定時にしないか、あとで話すから…」という連絡があった。
おち合った仲間が十人か、それ以上だったかはっきり覚えていない。
 どこへ?と聞いたら「番衆町」とだけ、それを答えたのは諏訪与三郎だったか、布留川桂だったか、それとも他の人だったか忘れた。いつもだったら、どこの誰のところへ何しに、というのに、この時に限って詳しいことはいっさい分からないまま、新宿行きの市電に乗った。  

 下車して、右へ曲がったか、左へ曲がったか忘れたが、六、七分も歩いたかと思う。番衆町のその家というのは、夜目にも広大な家で、植え込みをとおして見える庭の中央には、はだか電気がついて土俵らしいものがあり、その光がはるか先まで届いていた。  
 広い書院のような座敷には刀掛けなどもあり、すでに先客が十人くらいは、いたように記憶している。その中に大杉のいたことは確かだと思うが、ほかに誰と誰ということは、どうしても今は思い出せない。また、そこでどんな話が交わされたのか、その内容もすっかり忘れてしまった。  

 しばらくして、隅の方から二、三の人が本らしいものを持ってきて一人一人に配ってくれた。それがなんと『麺麭の略取』であった。むろん私ももらった。まさかこの夜、ここで、この『麺麭の略取』にお目にかかれるなどとは夢にも思わなかった。そのうれしさは、また格別だった。
 当時仲間では本物の『パン略』は発禁や押収などでほとんどないし、あったとしても高くて、とても手に入る代物ではないというのが常識だったのだから…。
 たぶん二円だったと記憶するが、持ち合わせのないものは、後で支払うということで、とにかく待望の『麺麭の略取』 の何冊かに思いもかけず、お目にかかることができた。そのことだけで頭がいっぱいになったためか当夜のほかのことは皆目忘れてしまった。  
 以上のようなわけで、四十年前に忽然と大量の『パン略』が正進会員の間に入ってきたのだが、前に書いたように、その経路が極秘にされていたので、今もって私はあの家のことがナゾとなっている。  

 ところが、たまたま、1960年7月発行の『労働運動史研究』の大逆事件特集号を読んだところ小松隆二君が補論という題で、近藤さんから聞いた話として、つぎのような特に私の注目を引く記事が載っている。  

<大正十年ごろだそうですが、三月ごろのある日、近藤さんが堺利彦を訪れたところ、堺に

「どうも、今日あたり、うちの手入れがあるらしい。そうだ、ちょっと厄介なものが家にある。それを外に持ち出してもらえないだろうか」

という話をもちかけられた。そこで、ともかく近藤さんがそれを外に運び出す役を負うことになった。

 その厄介なものというのは、発禁になっている『麺麭の略取』のことで、その全部が全部、明治41年末以来、ずっと堺家にあったのではなく、方々に隠しておいたものが、その頃には堺家に集められていたものらしいですが、およそ50冊くらいあったそうです。

 その運び出し方というのが面白く、その日、近藤さんは尾行をまいて堺家に行っていたので、まず、近藤さんが帰るふりをして外へ出る。その後、堺利彦が自身の尾行を連れて散歩に出て、堺家から尾行の監視の眼を取り去ってしまった。しばらくして先に出た近藤さんが人力車でそこへ乗り込み、四、五十冊の『麺麭の略取』をその車に積んで持ち出した。しかも念には念をいれて、堺家を出てから途中(靖国神社あたり)で車を乗り換えたりの苦労をして、全然気づかれずに運び出しに成功した。

 それからその『麺麭の略取』を堺さんと相談して、一部二円で正進、信友の外部にもらさないような信頼のおける人に頒布した。  これがおそらく、明治41年末に半ば秘密出版のかたちで刊行され、発売、頒布禁止になった『パン略』をまとめて処分した最後であろうと思われる一つのエピソードです。>  


 このことは、まだ直接、近藤さんに聞いてみないので、たしかなことはわからないが、どうも私の前に書いたのと同一のことのように思われる。  おそらく近藤さんもこの発表が初めてであろうし、私もまだ誰にも口外していない。  
 しかし、正進会員の大部分は下町に住んでいたので、この本物の『麺麭の略取』は、偉大な役割を果たしながらも大正12年9月1日の大震災で焼いてしまった。

 

 言及されている引用文献 『大逆事件を生きる』 坂本清馬自伝
 「『経済組織の未来』ほか 幸徳秋水とアナキズム」小松隆二



 「幸徳秋水と私」 『幸徳全集』付録冊子                    坂本清馬

「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」坂本清馬   

 わたしが寺の町、橋の町ともいうべき水都広島から東京に帰って、巣鴨平民社に行ったのは、明治41年11月の初めであった。…それから最も困難で且つ最も重大な秘密出版もやるという風に、文字通り寝食を忘れた猛活動であった。 「12月の半ばであったか、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。

 平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが数回続いた。」

 「こういう風にして、麹町三番町のある金持ち(多分先生の友人の小島竜太郎さんであように思う)の妾宅の倉庫に隠してある製本を、毎夜少しずつ取りに行ったり、昼間は市内や府下数カ所の郵便局に発送しに行ったりして、常に渾信身是れ眼といったような緊張した細心の警戒と不撓不屈の努力とを尽くして行動したので、平民社のすぐ眼と鼻のさきに昼夜張り込んでいる三人の尾行巡査や、いつやって来るか分からない同志の面を被ったスパイの封鎖網を潜って、地方同志に予約販売をし、米国同志、及びロンドン図書館等に寄贈して、完全にその目的を達成し得たのは、わたし一人が全身全力をこれに傾倒して、殆ど不眠不休の活動を続けたのに因ることは勿論であるが、戸恒、榎、管野、神川など、在京同志が、皆熱心にわたしの活動を直接間接に援助してくれたお陰であった。
 中島寿馬君は、中央郵便局からロンドンの大英博物館へ送ってくれたりした。しかも現在生きているものは、中島だけである。」


 英文原書は赤い羽二重のような絹表紙で、本は、非常に軽い、綿を引き延ばしたようなやわらかい紙に印刷した、厚さが二寸くらいの菊版の美しい書籍であった。訳者は幸徳伝次郎であったが、奥付けは平民社訳、代表者坂本清馬としてあった。それは、

「幸徳先生が入獄するようになると第一健康が気遣われるし、また全国の革命運動を指導するのに都合が悪い」という二、三同志の意見があったので

「じゃ僕が入獄るようにしよう。そうすれば都合がよかろうし、僕も獄中で勉強ができるし、一挙両得だから、僕が全責任をもって、飽くまでも秘密出版で押し通そう」
 ということに決定したからであった。  

 処がどういう魔がさしたものか、また誰と話し合ったものか、突然先生が「既に発送して了って目的を達したのだから、届けて見ようじゃないか」といい出した。  …  

 わたしは不満あったが、已むを得ず一月下旬内務省に本を添えて届出をした。  …  わたしが届出をすると、翌日警部と刑事がやって来て、一応わたしを訊問をして後、

 「原本と訳本とを頂いてゆきます」というから、

 「訳本はもう二十冊位しか残っていないのです。(註、わざと残してあった)不審に思えば御自由に捜して下さい。原本の英文書は、丸善でも教文館でも売っている本ですから、これを没収して来い、という御命令ではないのでしょう」というと、

 押し入れの中から訳本を二十冊ばかり持って帰った。或いは十冊から十四、五冊であったかも知れない。 間もなく、わたしは出版法違反で起訴された。

 公判廷で判事が「幸徳伝次郎が訳したのではないか」と訊問するから、

わたしは
 「この本の或る章は幸徳先生が訳したのもあり、また大杉君が訳したのもありますが、この本そのものはわたくしが訳したものであります。だから、わさくしが発行責任者となっています。

 平民社訳としてあるのは、名もないわたくしの訳としては売れないおそれがあるからであります。尤も両人の訳文を参考にはしてありますが」

 と答弁した。

 結局、罰金三十円の判決を受けたが、それはわたしが管野須賀子のことで先生と絶好して平民社を去った後のことで、罰金は管野を通して先生から受け取って完納した。

 これが『麺麭の略取』の秘密出版の真実の経緯である。  

スパイの「社会主義者沿革」二巻の19にはこの裁判を次のように報告してある。

「…幸徳伝次郎は…上京以来種々奔走せしも、何処にても該出版物の到底安全に発行し得られざるものなることを看破し、其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て、自己経営に係る『平民社』名儀を以て之を発行せんとせしが、安寧秩序を妨害するものとして禁止及差押の処分に付せられたり。

(明治42年2月1日告示第15号参照) 然るに其正規の届出を為す以前、既に之を発売頒布せし事実あり。

坂本清馬は之が為42年3月9日東京地方裁判所に於て出版法違反に依り罰金30円に処せらる」  

 このスパイの記録の中に記されてある

「幸徳伝次郎は…クロポトキン原著『麺麦の略取』と称する出版物を発行せんとし、上京以来種々奔走せしも、

(註、当時わたしはまだ23歳の浅学菲才の青年で、且つ先生の書生であったから出版費造成に就いては、先生に対して何等発言したことはなく、また先生が金策についてわたしに相談する筈もないのであったが、出版そのものについては、わたしと一応話し合って原稿を売るために書店に交渉していると、どうかしてスパイに探知されるかも知れないから、どこまでも自費出版でやるということに決定していたから、このスパイ記録に書いてあるように

 「其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て」て秘密出版をしたというような事実ではなかったのである)……其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て、自己経営に係る『平民社』名儀を以て之を発行せんとせしが、安寧秩序を妨害するものとして禁止及差押の処分に付せられたり」という文句だけを見ると、いかにもこの秘密出版が印刷中、もしくは販売中に、探知されて、禁止及び差押えの処分を受けたように聞こえるが、実際は上に述べたような事実であって、われわれが既に秘密出版の目的を達して後に、わたしたちは「内閣の弾圧がひどいから秘密出版をして、既に殆ど全部売って了いました。これだけ貴方たちに差上げるために残してありますから、すぐ取に来て下さい」と、

 いわんばかりに、二十冊だけ残してあったのである。しかも最初の決定に反して届出をしたからこそ分かったのであって、万一届出をしなかったならば、永久に発覚せず、発覚しても時効にかかっていたかも知れないのであったから、この戦いはわれわれの勝であった。  ここに、わたしが今でも満足していることは、この『社会主義者沿革』には、わたしが、「罰金30円に処せら」れたという事後の裁判結果のみを記してあって、わたしが、秘密出版をするために苦労した活動そのものについては、門前の三人の尾行巡査は勿論、警視庁も警保局も、全然探知し得なかったことである。

 註 印刷日は、明治42年1月25日であり、発行日は1月30日であったから、届出は多分1月28日頃ではなかったかと思う。何故かといえば、1月29日付け「出版法第19条による発売頒布禁止、刻版並印本差押処分」の公文書を持て、警部が刑事を連れて巣鴨平民社へ差押えにやって来たことが、最近分かったからである。 

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 1960年2月26日夜、於東京記す『文庫』1960年4月号


 
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by futei8 | 2001-10-21 00:33