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by futei8

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萩原恭次郎

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赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・序  改定 2011.6



一 赤堤

「恭次郎君は、カラカラと日和下駄の音をさせてやってきた。世田谷、赤堤一丁目の山本というお百姓さんの畑の中にあった私たちの家へ。つまり図書出版渓文社へ、昭和六年の秋のある昼過ぎであった。彼は風呂敷包みから『断片』の原稿を出して〈是非これを作ってもらいたい。表紙にはボルトのカットをつけてくれ給え。ぼくの希望はそれだけで、あとは君にまかせるから、たのむ。〉と言って、その夜は泊まった。…脊椎カリエスで寝ていた竹内てるよ君も寝床に、はらばいになったまま仲間にはいり、賑やかな晩餐となった。恭次郎君はよく笑い、しゃべり、きげんがよかった。竹内君もよく笑う。」 神谷暢〈詩集『断片』が出来るまで〉

赤堤、詩人の竹内てるよが詩集を刊行していた図書出版、渓文社の所在地であった。そして一九三〇年代から十数年間の住まいでもあった。


渓文社は何処に在ったのか……刊行された書物のこと、いつ迄続いたのか……渓文社、これ迄に赤堤に存在した唯一の出版社である。

渓文社に関する詩人たちの記述は少なく竹内てるよを調べ始めた当初、渓文社は遥かに遠い存在であった。当時の住所は刊行書の奥付や同時代の出版物の広告に記されているので、それを手がかりに現在のおおまかな地域は調べられる。一九三七年刊行の「一万分の一地形図〈経堂〉」を調べ、地形図に見入る。経堂と豪徳寺駅間の北側には畑地が広がっている。その畑地の中に住居の印が点在している。道は農道であるのか畑に沿って湾曲している。三一年の萩原恭次郎は、数年前に開通したばかりの小田急線を利用し、豪徳寺駅か経堂駅から降りたのであろうか、或いは世田谷線の最寄駅を利用したのか。恭次郎はしばらく若林に住んでいたので世田谷にはなじんでいた。若林に居た当時、豪徳寺の境内までは散歩の範囲であったことは推測できる。さらに甲州街道方面まで足を伸ばしたことはあるのだろうか。

背が高い日和下駄の恭次郎は七〇年前の赤堤を歩き竹内たちの住まいに向かっていた。恭次郎を待つ二人は貧しいゆえ特別なもてなしは用意できなかったが歓待の気持ちだけは充分にあった。

渓文社の出版活動の情報は限られていたが少しずつ文献が集まってきた。主宰していた二人は共に詩人。神谷暢は七七年に死去、著作は刊行されていない。もう一人、竹内てるよは自伝も含め著作は多いが、この時期に関しての記述はあえて曖昧にしているのか赤堤にいた時期は具体的には書かれていない。竹内は長命で二〇〇一年に九六歳で死去。

 渓文社の時代、二人と近かった詩人たちの著作を調べるしかなかった。八八年に亡くなっている詩人秋山清が著書『あるアナキズムの系譜』(七三年発行)で章をたて渓文社の事蹟を述べていた。またそのテキスト中には神谷暢との対談も短いが収載されていた。

 それによると渓文社は短い期間であるが竹内以外にも後に評価され著名になる詩人たちの詩集の出版に力を注いでいた。

文献をさらにたどると六八年に発行された『萩原恭次郎全詩集』(思潮社刊)に付された小冊子に神谷が当時の思い出を掲載していた。そのテキストの一部が冒頭に引用したものである。

 赤堤の渓文社の一室。むしろ木造の貸家の住まいそのままを出版業務も兼ねた部屋という方が正しいかもしれない。

 竹内は赤堤の家を回想、以前はここはまだ竹藪や畑ばかりであり農家は二、三しかなく、子供にあめを一つ買ってやるのも、畠を越えて歩いて行った、しかし電車が開通してから、あまり歩かなくなった、と語る。渓文社の一角は世田谷でもあまりひらけないところであったが竹内たちがこの家に住むようになってから、大分にひらけて来たというのである。借家建てとしては一番古い家で、東京のお金持ちが、病身のむすこのために建てたので狭い、と住まいの由来と様子も語っている。(『愛と孤独と』、五二年発行、宝文館刊)。

 恭次郎は渓文社の二人を前にして、自分の詩集を刊行する目途がついたせいか酒なしの晩餐でも気分がよかったようである。恭次郎はおとなしくなっていた。ほんの一〇年程前、『赤と黒』の刊行前後、本郷白山の南天堂二階で連日酒を飲んで騒いでいた「疾風怒涛」時代の恭次郎とは異なっていた。そして「活動」の時期も経て、故郷での家族との生活が恭次郎を変えていた。

昭和の始めの世田谷である、畑地の周りは竹やぶがあり樹木も多かったであろう。部屋で半日談笑していると鳥たちの啄みの声も恭次郎たちに心地よく響いたであろう。竹内にとってこの数年間は充実した日々であった。神谷の詩人としての同志的な生活の支援に始まり、草野心平による初めての詩集『叛く』の刊行、六郷での坂本七郎の励まし、各詩誌への精力的な発表。竹内にとって恭次郎の消息は詩誌を通じて承知していても直接会う機会はそうあるものではなかった。話は弾んだに違いない、詩論や仲間たちの消息、直接聞くことができるということは竹内に活力を与えただろう。そして恭次郎の二冊めの詩集を刊行する作業に立ち会えることは大きな喜びであった。

恭次郎に限らず二人と関わりがあった詩人たちの貧乏ではあるが熱い思いの時代を探り、渓文社と書物をめぐる物語の序章としたい。

二 萩原恭次郎

 一九三一年まで、詩集『死刑宣告』が恭次郎にとっては唯一の著作であった。話題をよんだが、ダダイストや未来派の芸術家との共同作品の側面もあり、恭次郎にとっては表現し終えた作品集であり再版以降は増刷を承諾しなかった。

そしてアナキズムの立場を強めた恭次郎にとって仲間たちの手で自分の詩集が制作されることはその数年の活動を集約したものになり刊行するという決意は強いものであった。

恭次郎は一八八九年五月二三日、群馬県南橘村に生れる。二三年一月、壺井繁治、岡本潤らと雑誌『赤と黒』を創刊、『赤と黒』は、当時のダダイズム、未来派などの文学運動の先駆となる。二四年頃連日のように本郷、白山上の南天堂レストランに出入り乱酔していた。二五年、第一詩集『死刑宣告』を長隆舎より出版、二七年一月、雑誌『文芸解放』を壺井繁治、小野十三郎、岡本潤らと創刊。同年五月、世田谷町若林に移る。八月、文芸解放社はサッコ、ヴァンゼッティ釈放要求運動の中心となり、恭次郎も八月二三日に築地小劇場で抗議演説、その後米国大使館に押しかけ石川三四郎、新居格らと共に検束留置される。

これまでの恭次郎の年譜では以下の回想には触れられていない。当時の詩人仲間、金井新作は「まだ、世田谷の若林で、我々が共同生活をしていた頃、或る日、恭次郎と共に尾崎喜八を訪ねた」と回想している。またこの年、駒場に住んでいた詩人の秋山清がたびたび往来していたことは秋山自身の回想にある。「彼(恭次郎)が東京世田谷の若林あたりの、まわりに水田の多かった家に住んでいた頃で、そこからそう遠くない駒場にいた私は休みの日など時々出かけていったそのころ小野十三郎は私とは帝大農学部を距てた代々木富ヶ谷に住んでいた」『あるアナキズムの系譜』。徒歩で二〇分もかからない距離であろう。そうすると記述としては残されていないが小野も恭次郎と往来していた可能性は充分ある。小野は南天堂出入りの時期、そして文芸解放社で恭次郎と行動を共にし一番親密な時期であった。若林の具体的な番地を現時点では確認することができない。恭次郎は頻繁に書信を出すことはなかった。とくにこの時期の便りは警察との緊張関係も影響し受けたほうもすぐに処分をしていたのではないか。ただ『黒色青年』(黒色青年連盟機関紙)一二号(一九二七年九月発行)の消息欄に「文芸解放社は東京市外世田谷若林五二七壺井方に移転」とある。恭次郎が壺井と同下宿か近所に間借りしていた可能性は大きい。

少し金井に触れる。一九〇四年、静岡県沼津町生まれ。詩に関心をもち二六年、尾崎喜八を知る。二七年『文芸解放』、他にもアナキズム文芸誌の同人となり寄稿も多数。慶大仏文科を卒業、三四年には古本屋を経営しつつ自らの詩集を刊行する。同志の詩人碧静江と結婚。

恭次郎は二八年一〇月頃、東京を離れる。二九年五月、前橋で草野心平が刊行していた詩誌『学校』第五号に「断片」と題した詩を三編寄稿する。以降同じ『断片』という題で詩を発表し続ける。三一年、詩集出版を相談するため上京、「詩神」社を訪問。小野十三郎らと交遊。翌日高橋新吉、坂本七郎、渓文社の神谷暢、竹内てるよを順次訪問。さらに既述の渓文社訪問となる。一〇月にその第二詩集『断片』を出版。三二年、謄写刷りの詩誌『クロポトキンにおける芸術の研究』を謄写刷りで発行、自分で原紙をきり刷る。



 恭次郎は仲間達との共同性を意識していた。一九三一年一月に発表された評論、〈生産本位の芸術より消費本位の芸術生産へ〉において展開している。恭次郎は、詩をつくるつくらん、製本する製本せん、そんな問題は更に重要さを持たないと主張。…作者も共同者も助言者も、植字工も製本工も、各自の能力に従って共同の思想、全体に尊重の出来る作品なり行動なりをつくり出す以外の何者でないと、共同作業の過程が重要だと訴えている。恭次郎は文化人として、作家としての詩人の位置にとどまる気はさらさもなかった。仲間たちとの共同を求め、それぞれが担当する部分で力を発揮することが最良の作品をつくりあげると確信していた。竹内の苦闘も表現している。

 詩〈あんまり考えるな──ある女の像──〉抄              

肉体は木乃伊になろうと最後の呼吸まで正しく吐いて死体にならう。かつてその乳房は乳児の歯のない口が噛んだのだ。/……新宿の雑踏の片隅で赤や白の花を売る。それはごみごみの屋根裏から貧血の足を踏んで出て来たのだ。/ ……この日、彼女を肩にしてその屋根裏に夜を明かして介抱してくれた青年の顔は、火の如く燃えていた。 /……怖ろしい喀血の咽喉に湿布する手。カリエスの痛みに気絶する彼女を縛して堪へさせる手。

竹内の二八年頃の生活を描写。病気の身体で新宿駅頭に立つ竹内の存在は仲間の詩人たちの間ではすでに知れわたり、その竹内の生存をかけた花売りの姿を恭次郎は表現している。青年は神谷であろうか看病の姿を描いている。

三 竹内てるよ           

竹内は詩作を始めるまで、その短い人生において大きな苦難を経験してきた。一九五二年に発行された自伝『いのちの限り』(竹内てるよ作品集一、宝文館刊)を参考にする。一九〇四年、竹内は札幌で生誕後から生母と生き別れる。父親は銀行員、母親は半玉であり二人の仲は許されなかった。父親は借金を作り家には寄り付かず判事として北海道を異動する祖父と祖母のもとで育てられる。祖父の退職後一家で東京に出るが竹内は家計を支えるため、女学校を中退し商事会社の事務員となる。文学好きで仕事を終えると創作にいそしんでいたという。一六歳で『婦人公論』の短編募集に応募し入選、それが縁で他の出版社を紹介され記者となる。二四年五月、二〇歳で結婚、出産。二四歳にて脊椎カリエスに罹り病床に伏し離縁され、子供は手放してしまう。そして闘病生活の過程で詩の創作を始める。二八年『詩神』(福田正夫編集、実務は神谷暢)に作品を持ち込む。小田急線代々木上原駅近くに住まいがあったという。病身で我が子と引離され貧困の中で詩の執筆を続けるという生活に根ざした女性の登場は詩人仲間に衝撃を与え同情が広まった。二九年はアナキズム系文芸誌にも寄稿が始まる。「当時竹内君の病状は悪く、ほとんど毎日の喀血、血便、貧血による 人事不省状態の連続」と神谷は回想している。〈『渓文社』事始め〉。この頃の竹内の詩は晩年の著作にも収録されることもあるが、「評論」は初出誌でしか読むことができない。掲載誌は『黒色戦線』二九年四月号(第一巻第二号)である。

〈或る婦人参政権論者への手紙〉「Kさん 婦人参政権ははたしてそれを得ることによって全日本のしひたげられた女達の希望と幸福とをかち得るほど、それほど重大なものでせうか? Kさん おしつけがましい社会運動にはどん底生活者の婦人達はすべて愛想をつかしました。…参政権よりも一升の米です。…Kさん …私は現制度の破壊と、新しきアナキズムの社会の建設とを主張したいと思ひます……」

次に、『黒色戦線』五月号(第一巻第三号)では「生みの母」へ呼びかける形で、自己の出産、公娼廃止運動への批判を語る。この自己の出生に関しては戦後の回想、エッセイで繰り返し触れられて行くが活字化されたのは『黒色戦線』誌が最初ではないのか。

〈母さんあなたは生きていますか〉「母さんあなたは生きていますか。それとも、もう死んでしまはれたでせうか。…私は、こゝであなたへの積年の思慕や、感傷に沈んでゐるべきでないことをようく知ってゐます。」とまず生き別れといわれている母親への呼びかけで文章を始めている。

「母さん、…売れっ子であったあなたの妊娠は、烈しい鞭となってあなたを責め店の女将のけはしい言葉や、同輩たちの冷酷なさゝやきの中にどんなに心せまい思ひをなさったでせう。……」

 後年、竹内が聞かされたわずかな母親の出産前後の置かれた状況を述べている。

「母さん、現在東京のブルジョア婦人達は、彼女達のおざなり婦人運動の中に公娼廃止といふのもやってゐます。……私の身内に流れるあなたの血は、はっきりとそれを笑ってゐます。……この社会の苦悩から私達を解放するのは、決して少数政治家や支配者の寛容ではありません。民衆の中に民衆の生んだ正義への革命の日をおいて何時を信ずることが出来るでせう。……」

 この結論は当時の仲間たちと話し合い、運動紙誌を読み、急速にアナキズムを学ぼうとした影響が強く出始めている。気張った言い方ではあるが竹内なりの自分の境遇と重ねた精一杯の表現である。竹内は前述したように、坂本七郎の個人詩誌『第二』にも詩を掲載。仲間たちの詩誌へ毎月寄稿する。

 病身で自ら生活費を稼ぐという生きる欲求のエネルギーは周りの詩人たちを動かして行く。男の詩人たちも貧困の中で詩作を続けてきている故中途な同情ではないだろう。子と離され生活と表現を続ける竹内の存在に圧倒されていたのだろう。三〇年には秋山らの『弾道』、三二年には恭次郎の『クロポトキンを中心にした芸術の研究』に寄稿。同誌には「草野心平君、ヤキトリ屋……」「坂本七郎君、失業中」「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」と恭次郎が仲間たちの動向を簡単に記している。北海道、山形の『北緯五十度』、福島の『冬の土』誌と列島を縦断し竹内の寄稿先は広がってゆく。
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by futei8 | 2011-06-07 09:03

萩原恭次郎2

四 神谷暢と渓文社

 渓文社の創設は竹内てるよの存在抜きに語れない。直接の契機は竹内の詩集を刊行したいということであった。

一九二八年、神谷は竹内との共同生活を滝野川の八百屋の二階、四畳半で始める。神谷は〇五年、東京生まれ、父親は医者であったという。二三歳の神谷と竹内の出会いは詩作活動を通じてであろう。同年一二月三一日、川崎に住んでいた詩人であり市会議員にもなった陶山篤太郎経営の川崎新聞に神谷が印刷見習いとして通うことにした。そのため竹内と神谷は川崎と対岸の「六郷土手」に移る。東京府荏原郡六郷高畑六四四。竹内は前出の著作で渓文社の最初の地も回想し、その家は六郷川の川原にある土手の下で、よくコスモスが一杯にさき、そして川にはいつも少し風があったとささやかな多摩川土手の自然をなつかしがっている。そして病いが続き神谷との共同生活に触れ、「私はいついゆるとも知れない病床にいたし、私とその年、一緒に生活しはじめたKという友達、この人と私は今も親密に交際している」と、戦後も共同生活が続いていると述べている。六郷高畑は現在の大田区西六郷である。多摩川が大きく湾曲して形成された河口州になる。神谷のこの六郷時代を描写した詩が二人の生活をよく表現している。

詩「二人 」抄                  神谷暢              

米箱には米はなかった /お米を買ふ金はなほさら無い /どうしたらいゝかを二人は考えた /俺達は貧乏を泣かない /金持といふことが何んの値打ちでもないと同じやうに /貧乏といふことは何んの誇るべき値打ちでもない /リヨウマチが俺を仕事から引き離した /俺は永いこと寝てゐた /俺は痛む足をバスケットの上へのせて寝たなりで童話なぞ書いた /身體の動かない彼女も熱や痛みと戦ひながら原稿を書いた/…/省線のがたがたに震へる二軒長屋の三畳の部屋で /俺達は段々落ち込んでゆく貧乏を感じてゐた /俺達は俺達の全力を合はせて生きてゆかうと強く思つた /俺達は貧乏を恐れまい /俺達は朗らかでゆかう。

竹内だけではなく神谷まで病気持ちで生活費を稼げないとある。竹内には草野心平らが「死なせない会」を設立し高村光太郎や尾崎喜八は現金での支援もしていたらしい。秋山は渓文社に関して「昭和四、五年頃からその存在ははっきりと記憶にのこっている。そこから刊行した詩集など記憶につよいものがあり、中浜哲の『黒パン党宣言』その他が発禁になったことも知っている…」と神谷との対談で語っている。また「アナキズム系詩人の一拠点のように見なされることになったのである。自分たちで刷り物をつくって撒く。自分の手で出版して売る、分ける。仲間のものを印刷する。 発禁になる前に配ってしまう。……」と渓文社の印象を残していた。神谷は「最初に刷ったのがこれなんだ」と、活版の詩集『叛く』を示し「寝てばかりの竹内がよろこんで、元気になったよ」と懐かしむ。この六郷で、仲間に呼びかけ活字を購入し神谷自身が学んだ活版印刷技術を基に、後に「けい」の漢字は渓と改めるが啓文社として始められる。頁物を制作できる九ポイントと六号活字が揃ったという。秋山が語っているようにアナキズム的思想の啓蒙。詩集、文集、童話、パンフレット、小新聞等の発行と印刷所の経営を目指したのである。「次がまた竹内の『曙の手紙』こいつは警察から注意されたね。それから別にガリ版で『相互扶助』という雑誌も二号出した。クロポトキン思想のわかりやすい紹介を狙ったものなんだ。そしたら警察がうるさくなって、 だからとつぜんのように今の世田谷区の赤堤に越した。」と移転の原因を語る。「渓文社の仕事はそれからといっていいだろう。赤堤に移ってからは精神的に、貧乏の中でやったよ」と赤堤時代が本格的な渓文社の活動時期としている。〈ききがき『渓文社』より〉

権力や支配のない社会をめざすアナキズムにも考え方がいくつかある。アナキズム運動史を著している小松隆二は「アナキズムにあっては人間をすべての発想・行動の根幹にすえることから出発する…」と語っている。また三三年には「なにものにも従属しない創造的な文学運動」を主張した解放文化連盟が発足、恭次郎、岡本、小野、秋山らが参加。小松は「運動全体では沈滞しつつあったが文学では活気をおびていた」とも述べている。渓文社のたちあげと出版活動はその一翼を担っていた。

渓文社の刊行物の幾つかを複写と原本で確認することができた。その刊行データを記しておく。

『叛く』竹内てるよ詩集 活版刷り 
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著者 竹内てるよ 昭和六年四月一日印刷 昭和六年四月一〇日発行 定価五〇銭 東京府下六郷町高畑三〇七 発行謙印刷者 神谷暢 発行所 渓文社印刷所出版部 自由叢書第一編

 題字は高村光太郎の墨書。高村はすでに著名な芸術家であり詩人であったが、一九二五年、草野心平が訪問し交友が始まりそれを機に他の若い詩人たちとも交流をするようになった。

この年、『叛く』の奥付で確認できるが四月までは渓文社は六郷の住所。赤堤に移転した正確な月日は不明である。なぜ赤堤なのか。前述の対談で「警察がうるさくなって」という理由もあり移転は迫られていた、六郷は長屋であり人の出入りはすぐ判ってしまう。竹内や神谷自身の病状もあり少しでも環境がいいところを探したのであろう。赤堤の借家はもともと病気療養のために建てられた畑の中の一軒家である。空いてからも敬遠され、借りてがなかなか決まらなかったのだろうか。また数年前に小田急線が開通しているとはいえ冒頭の竹内の回想を読む限りではまだまだ不便な地域である。したがって家賃もそれほど高くはなく借りられたのではないか。竹内は神谷との「共同生活」の前は代々木上原辺りに住んでいたというので小田急線や世田谷への土地鑑も多少あったのだろう。

萩原恭次郎詩集『断片』活版刷り

昭和六年一〇月六日 印刷 昭和六年一〇月一〇日発行

発行謙印刷者 神谷暢 東京府下松澤村赤堤一八六 定価五十銭

 前出の神谷の『断片』刊行の回想では高村に表紙カットの相談をしたことを述べている。

「ボルトのカットを画いた時は、高村光太郎さんの所ヘ持っていって、見てもらった。光太郎さんは、時計屋が修繕の時に使うような片眼で見る小さい筒のような眼鏡でそれをみ終ってから《まあ、いいでしょう》と言われた。心細いが、やや安心もして、それを使うことにした」

『第二曙の手紙』竹内てるよ詩文集 活版刷り 

題字 高村光太郎 昭和七年四月六日印刷 昭和七年四月一〇日発行 東京府下松澤村赤堤一八六番地 印刷人発行人 神谷暢 発行所渓文社 定価五十銭

三三年の初めか、神谷と竹内は住まいと渓文社を分離させ、北沢に一軒家を借りている。しかし若い同志たちの無軌道な振舞いで、維持することは困難になり再び、赤堤に渓文社を戻している。北沢時代は一年も続いていない。

 また東京の区制が拡大し世田谷区が誕生した時期にあたり、渓文社刊行物の奥付もそれにつれて変更されて行く。

『花とまごころ』 竹内てるよ詩集 活版刷り 

定価五十銭 昭和八年一月二五日印刷 昭和八年二月一日発行 発行謙印刷者 神谷 暢 東京市世田谷区北澤三ノ一〇二六 発行所 渓文社

『葡萄』竹内てるよ作品集 謄写刷り 
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昭和九年二月三〇日印刷 昭和九年三月一日発行 東京市世田谷区赤堤町一ノ六六

渓文社の刊行書に掲載された広告、著作者関連の文献、秋山清の調査で渓文社刊や発売元となっているものを次にあげる。

中浜哲詩集『黒パン党宣言』謄写刷り。発売禁止処分。         

 中浜哲は当時ギロチン社事件の首謀者として有名であった。詩二篇〈黒パン党戦言〉〈黒表〉を収めている。渓文社に協力していた西山勇太郎が制作、刊行した。秋山がかつて所蔵し回想で内容に触れている。タイトルは戦を宣に変えている。

 中浜の本名は富岡誓。福岡県東郷村、現北九州市門司区生まれ。二二年に「ギロチン社」を古田大次郎らとたちあげる。大杉栄の虐殺後、後に広く知られる「杉よ ! 眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。二四年三月、恐喝犯として逮捕され、大阪控訴院で二六年三月死刑判決となり四月に絞首される。中浜は処刑されるまで大阪刑務所北区支所の独房で詩や回想記の執筆を進め、著作集が冊子として二五年一二月に刊行される。『原始』『文芸戦線』『解放』誌やアナキズム運動各誌紙に詩や評論が掲載される。

北達夫詩集『同志に送る歌』活版刷り

昭和七年十二月廿五日印刷 昭和七年十二月三十日発行 価十五銭     著者 北達夫 発行兼印刷人 神谷暢                  発行所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 渓文社                  

 北は本名、宮島義勇、一九〇九年茨城県菅野村生まれ、学生運動からアナキズム系の運動に参加。神谷、岡本らと交流、三〇年、アナキスト詩誌『死の旗』同人となる。詩集は神谷に勧められて刊行。                          

一九三一年度『アナーキズム文献出版年報』発禁 詳細不明                   

マラテスタ『サンジカリズム論』 (渓文社文庫)詳細不明                 

マラテスタは著名なイタリアのアナキストにして理論家。

竹内てるよ童話集『大きくなったら』渓文社満二ケ年紀念出版 活版刷り   昭和七年 十一月二十日印刷 昭和七年十一月廿五日発行 東京市世田谷区赤堤一ノ一八六 発行者印刷者 神谷暢                        

堀江末男小説集『日記』活版刷り

昭和九年十二月十日印刷 昭和九年十二月廿日発行 定価五十銭 発行者神谷暢 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 印刷者 吉本孝一 渓星社印刷所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八三 発行所 渓文社 東京市市世田谷区赤堤町一ノ一八六                    

堀江末男は一九一〇年大阪府寝屋川村生まれ、一九二八年京阪電気鉄道に勤務、三三年、『順風』(小野十三郎らの)同人となる。戦後は『コスモス』に参加。詩集『苦悩』『おかん』がある。奥付の中で神谷以外の印刷者の名が記されている。吉本孝一である。住所も三番地異なり渓星社という名も印刷所に付されている。吉本は群馬出身のアナキスト系詩人で萩原恭次郎と交流がありそのつてで一九三三年秋、渓文社で働き始めた。

フランシスコ・フェレル『近代学校・その起源と理想』(発禁) 渡部栄介訳   詳細不明                                 

フェレルはスペインの教育運動家、アナキスト。一九〇九年、政府のモロッコ派兵反対闘争に参加、逮捕され世論の反対にもかかわらず一〇月に銃殺される。子どもの自由意志を尊重する教育理論は自由学校につながる。

五 草野心平と渓文社                   

 草野心平は中国の大学に学び在学中から同人詩誌『銅鑼』を刊行した。草野と交友があった詩人たちが参加。日本に戻ってからも同誌の刊行と詩作を継続していた。その頃に草野は竹内と出会っている。「一九二七年一月、赤羽駅から新潟行き列車に乗るのを木村てるよが見送る(『草野心平全集』年譜)」しかしこの年に関しては草野の記憶違いと思われる。草野の回想では「…新しく同人になった木村てるよが喀血したと神谷からきいていたので、まず彼女を見舞ってから、東京をしばらく離れようと思った。幡ヶ谷あたりだった木村てるよの間借り部屋はわかったが、彼女はいなかった。机の上には長唄でもあるらしい台本があり、その写しが並んでいた。当時彼女は一枚五厘位で、その筆耕をやっていたらしい。帰りの道で彼女にあった。訳を話すと彼女は赤羽までおくるという。断ったがきかないので彼女の言葉に従った。」と述べている。(『わが青春の記』)。竹内は三四年発行の『宮澤賢治追悼』誌に〈午後八時半の透明〉という追悼文を執筆。その文中で「佐渡へ立つといふ夜のステーションの汽車をまつあひだ…」と草野から賢治の芸術の世界の話を聞いたというエピソードを記しているが何年かは記されていない。草野の年譜には「新潟行き」がもう一つある。「一九二八年五月、再び新潟へ、寒河江真之介の〈カフェ・ロオランサン〉の食客となる」とある。『銅鑼』誌一五号(二八年五月刊)には「木村(竹内)てる代、坂本七郎が同人に加わると記載」。既述したが、竹内は『詩神』に初めて作品が掲載さたのが二八年であり、そこから詩人たちと交友が始まる。それ以前の二七年一月に草野と会うというのはおかしい。草野が二八年と混同しているのではないか。

 二八年、草野は坂本七郎のすすめで前橋市に転居。一二月になり個人詩誌『学校』を創刊。二九年、『学校』は二月から続けて刊行され月刊ペースである。竹内は五号まで毎号寄稿。五月になり草野は竹内の詩を集め『叛く』と題し、自らのガリきりで銅鑼社(上州前橋神明町六九)から、謄写印刷の百部限定で刊行する。印刷人は坂本七郎。表紙は毛筆で書き、「製本は女房と二人で」と回想。そして後に第一書房から出版された詩集で竹内が有名になるが、その機縁が『叛く』であったことを聞き「私はうれしかった。」と語っている。(『火の車』〈前橋時代〉)。

 草野は自らも貧乏ではあったが竹内への支援を惜しまなかった。神谷との交友は元々ありそれが渓文社との深いつながりになる。自著を刊行するだけではなく、すでに銅鑼社の活動を止めたという理由もあるが同社刊の詩集も渓文社から再版している。草野が関わる刊行書を記す。

草野心平詩集『明日は天気だ』謄写刷り

草野は東京に戻り焼き鳥屋をしながら詩作を続けた。そして屋台を引きながら突然に詩集刊行を決意する。それが三一年九月刊の『明日は天気だ』。

「…八月二六日の晩。自分のやってる焼鳥屋の屋台で突然本を出すことに決めた。附属品や自転車を買いたいためである。…一九三一年九月一日。曇後晴。」と刊行が突発であったことを『明日は天気だ』の後記から回想している。謄写版刷り、百部発行。制作過程も、普通の詩集としてなら約二百頁分位を朝からネジリ鉢巻きで原紙を切り、夜は刷り綴じと一日でやってのけたと語っている。『わが青春の記』。草野は中国での『銅鑼』刊行以前から謄写刷りで私家版の詩集を出していた。前橋でも『学校』誌は草野が原紙をきり謄写刷りである。したがって自分の詩集のためならば一日で作業を終えてしまうのは造作もなかったであろう。渓文社は制作では関与していないようである。草野は自身で謄写版を用意できたしガリきりの技術は慣れていたからであろう。つまり渓文社の連絡先を草野は必要としていたということである。

草野心平訳『サッコ・ヴァンゼッチの手紙』活版刷り   昭和七年九月一日印刷 昭和七年九月五日発行 発行者 東京市外松澤村赤堤一八六 神谷暢 発行所 東京市外松澤村赤堤一八六 渓文社 定価十五銭送料二銭                              

サッコとヴァンゼッティはイタリア系アメリカ人。二七年八月、全世界の釈放運動にも関わらずフレームアップ事件で処刑された。東京においても同月釈放のための集会がもたれアメリカ大使館への抗議闘争となり恭次郎らが検束されている。七七年に時の州知事が無罪宣言をするが、それを受け草野は回想、詩にしている。                               

坂本遼詩集『たんぽぽ』活版刷り

(銅鑼社刊の再版) 昭和七年 発行 府下松澤村赤堤一八六                 

元本の銅鑼社版を草野が回想。元本は昭和二年九月の発行。著作者、坂本遼として兵庫県加東郡上東条村横谷の住所、発行所は土方定一の住所を銅鑼社としている。草野の序詩と跋、原理充雄も「坂本遼の手紙」を序として執筆している。                        

三野混沌詩集『ここの主人は誰なのか解らない』

原本は確認できていないが、草野と三野とのむすびつきで刊行したと推測。三野混沌は本名吉野義也、一八九四年福島県平窪村生まれ。詩を書き始めて山村暮鳥を知る。一九一八年、早大英文科に入学するも翌年開墾生活に戻る。一九二四年、草野を知り、『銅鑼』『学校』などの同人となる。

『宮沢賢治追悼』(次郎社刊) 活版刷り

昭和九年一月二十五日印刷 昭和九年一月二十八日発行 定価五十銭 送料二銭 編集兼発行人 東京市渋谷区大山町二十三番地 草野心平 印刷人 東京市芝区浜松町一丁目十五番地 鷲見知枝麿 発行所 次郎社 東京市本郷区向ヶ丘弥生アパート内 発売所 東京市世田ケ谷区松沢村赤堤一八六番地 渓文社 振替東京三六五九〇番 B五判紙装・グラビア肖像写真一葉・目次二頁                         

発行所は当時の逸見猶吉の住所。執筆は旧銅鑼社同人が中心。神谷暢「光の書」、竹内てるよ「午後八時半の透明」を収載。渓文社の住所表記は旧に世田ケ谷区を付しただけの誤記であろう。               
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by futei8 | 2011-06-07 08:19

萩原恭次郎3

六 坂本七郎                              二人を支えた詩人で坂本を忘れることはできない。彼もまた詩集を残さなかった。しかし既出の個人詩誌『第二』が各地の文学館に所蔵され読むことができる。一九二九年当時、八王子に住んで居た坂本は六郷の竹内と神谷の家をしばしば訪ねた。坂本は『弾道』二号に竹内を主題にした「第三夕暮の詩」を寄稿している。  

〈第三夕暮の詩〉抄

掲示は白く分倍河原/南部鉄道へ乗換駅/この武蔵野西北隅の/雲に濡れる一小駅に/汽車を待つのはおれ一人か/冷いベンチに身を凍らせて/目を落とす、眼前を走る鉄のレエル──/荒涼の涯の川崎市外/煙に澱む六郷川/そこに友がいる、病み闘う/この寒風の凛烈にも/挫けぬ、氷河の床に燃ゆる人……………

『第二』は謄写刷りで六〇部前後の印刷、二九年に九号まで発行していた。坂本は技術者であり放浪の人であった。 坂本の「夕暮の詩」には、第一から第四まであり、第一は八王子の織物女工たちを、第二は工場法実施を、第四は十六歳の電話交換手をテーマにしている。坂本は恭次郎とも親しかった。〈「思い出断続」より〉 「………その年の大震災後、駒込千駄木蓬莱町の大和館で、はじめてわたしは萩原恭次郎に会ったのだが、そのときは、お互いに、ニラミ合っただけで、ろくに口はきかなかった。」

 編集記を読んで行くと、二九年の坂本七郎の奮闘が浮かび上がる。

「第五号の詩をガリ板で二十頁分書き終へたのは土曜日の夕刻であった。すでに暗くなった窓の外に眼をやって、僕はくたびれた手を休めた。今夜は尾形君の詩集の会があるのだと知っていても一銭も持っていない僕はどうしやうもなかった。…午後一時から七時までぶっつづけでガリガリやった。そしてやっと終へた。何よりも理屈よりも僕は今日の自分を信じたい。六月八日」

坂本が如何なる事情で、この時期経済的余裕がなかったのかは不明である。技術者として八王子で働いていれば、最低限の収入はあったのだろうが、放浪の人でありそれまでの生活での借りもあったのかもしれない。謄写刷りとはいえ『第二』を毎号六〇部刷り郵送していたが、多くの仲間から購読料を得るのは困難であったろう。また神谷たちへも支援していたのかもしれない。いずれにしろ電車を乗り継ぎ、出版会に参加する余裕はなかったのは事実である。参加できない寂しさをガリ版に向けていた。また七号の後記には「『第二』六号の、竹内、神谷両君の作品には誰れも打たれました。岡本潤君からは直ぐ手紙が来ました。」と二人の六郷での生活とお互いを描写した詩に触れている。そして竹内の「午後から発熱して分からなくなるから、熱の出て来ない内に急いでこれを書いた」という七号の詩にも言及している。

 続いて、尾崎喜八が竹内の詩の批評を書き、自著を出版し寄付するということも記されている。渓文社の二人への応援に満ちている。秋山清はこのようなヒューマニズムの内面にある「思想的弱さ」を批判しているが、この時期に凝縮した相互扶助的な精神はそれぞれの生きる糧となっていたことも確かと思われる。

七 詩集『断片』

 再び、神谷の回想に戻り渓文社の一室。

 恭次郎は「これはうまいんだ!」と言いながら、いろり火で生がを焼き味噌をつけてぼりぼり食べている。神谷は「他に何も食べるものがなかったのだから、これをたべるより仕方がなかったのだが…」と記す。恭次郎は「断片」の原稿を示しながら詩集の体裁に関し最低限の希望を話す。「出来上がりの厚みが出るように」と。

 材料費は恭次郎が先においていったが、制作にあたり神谷にとって余分な出費はおさえなければならなかった。秋山の回想によると赤堤の渓文社を一度訪ねた際に部屋に活字が広げてあったとある。しかしこの時期理由は不明だがそれら活字、印刷機等、印刷に必要な一切のものは仲間である淀橋(現在の鳴子坂上辺り)の西山勇太郎のところに置いてあったという。そのため赤堤から淀橋通いがはじまる。「それこそ、雨の日も風の日も、通いつづけた。日日の食費にも事欠くような時であったので、毎日通う十銭の電車賃も心もとないとあって、歩いて通った。………」と語る。

西山は一九〇七年に東京で生まれ、小学校卒業後に木村鉄工所に見習工として入る。病気になり回復後は事務員として住み込んでいた。二四年、辻潤の訳でシュティルナーの〈唯一者〉の思想に触れ、放浪の人、辻潤の滞在先として便宜をはかっている。三一年、『叛く』により竹内てるよ、神谷暢を知り渓文社の活動に協力する。三四年、雑誌『無風帯』を刊行、辻、竹内、岡本潤らが執筆。辻潤追悼を『無風帯ニュース』で企画。

西山は生活記録の中で「一九三一年の初夏、わたしの薄ぐらい埃とごみの部屋の中で、神谷暢君が活字を拾って組んで…」(三八年の項『低人雑記』三九年発行、無風帯社刊)と回想。『神谷は恭次郎の打ち合わせを秋としているが、『断片』の一〇月刊から逆算しても、打ち合わせの季節は西山の初夏のほうが正しいのではないか。西山の回想は七年後、神谷の回想は三〇年余り後である。

 万年床の敷いてある暗い部屋で昼も電灯をつけて仕事をしなければならなかったと神谷は描写している。「活字をひろって、組んで、それを小さな手きんで一頁ずつ印刷していった。厚ぼったい、色のきたないちけん(地券)紙に刷った」

しかし刷りあがった後、製本段階でうまく行かないことが判明する。製本屋に頼んだが、「出来上ってみると、ゴワゴワしていて、開いて見るのに、見にくいものになってしまった」とある。神谷は開いて見られるように糸かがりの製本を頼むつもりであった。しかし小さな製本屋はそれが出来ず上から針金どめにしてしまったという。手きんで一頁ずつ刷ったのが失敗であった。印刷だけの技術は習得したのかもしれないが、書物を制作する様々な過程を学んでいなかったのではないか。三五年後の回想でも詳しく記しているから、相当に心残りであったのだろう。

詩集『断片』が手元にある。

 確かに現実の詩集『断片』を手にして頁をめくるのは苦労である。本文紙が固い紙なので両手を使い、普通より少し力をいれてようやく半開きという始末である。完全に折り曲げることは不可能ではないが繰り返すと痛んでしまう。しかし固い紙だから保存には耐えたのではないだろうか、背が痛む以外は頑丈な詩集である。「いろいろの不満もあったとはいえ、出来上がったときは、何んとも言えぬうれしさだった。真白い表紙の汚れるのを恐れながら、梱包して、前橋ヘ送った。折返し、恭次郎君から、よろこびの手紙を受取って、安心した。…甲州猿橋にて。六六年九月」と神谷は回想をしめくくっている。

 恭次郎も頁を開くのに困難を強いる詩集は内容に合っていると思ったのではないか。タイトルも最初は『鉄の箒』とつけたかったようであるから、頁を繰り読むという行為自体も意識化する固い紙はよかったのではないか。

『断片』への書評を萩原朔太郎が執筆している、それは、より内奥な意志をもつところの、静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、そしてその怒を書くところの抒情詩だ、と言い切り、僕は所謂アナアキストではないけれども、詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、全部残りなく同感できる、と絶賛である。また萩原恭次郎君と僕とは、偶然にも同じ上州の地に生れ、しかもまた同じ前橋の町に生れた、と故郷の同一性から語り、『死刑宣告』を評価した後、「今度の『断片』を読んでもまた、同じく或る点で共通を発見し、芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。最後に再度繰返して、僕は詩集『断片』の価値を裏書きしておく。…」と支持し全面的評価である。(〈詩集『断片』を評す〉『詩と人生』一九三二年三月号) 

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八 再びの赤堤

 一九三一年、渓文社の赤堤移転の年に始まった日本国家による中国への侵略も本格的にすすみ、三〇年代半ばになると戦時国家の状況下でアナキストたちにも治安維持法弾圧が続いていた。詩人たちは自らの思想を自由に表現できなくなり、ことばの自由は奪われ詩誌刊行は不可能となった。渓文社の活動も一九三四年に停止する。そのような状況下、第一書房の長谷川巳之吉が竹内のヒューマニズムに訴えた詩を中心に編集、順次刊行し好評を得た。『静かなる愛』四〇年、『悲哀あるときに』四〇年、『生命の歌(詩文集)』四一年『美しき朝』四三年と続いた。四〇年代以降は病状も回復傾向にあり、執筆活動もさらに盛んになり他の出版社からも刊行が続いた。それにつれて竹内の生活にも変化が起きた。詩集の刊行が続き一定の部数が売れると竹内は借家だった家を購入する。そして赤堤の地も変わりつつあった。「このあたりが町になつた。…庭は、私のたんせいで作つた。…植木を一本かうのに、私の詩の稿料であてたというのである。柿を一本買うのにあの詩、椿を一本買つたのはあの童話。というように、ねていて何の楽しみがなかつた私は、そうした収入で庭木をかい集めていた。」




そして故郷前橋に戻り生活も落ち着いた恭次郎は戦争国家を高揚させる詩を発表、かつての仲間たちを驚かす。しかしその広がった波紋を知ることなくしばらくして病死、数え年四〇歳、三八年のことであった。数年後、仲間の詩人たちは沈黙するか、恭次郎のように国家の側に身を寄せた詩を作る。高村光太郎もそうであり、竹内もその一人であった。恭次郎の追悼会は前橋と東京で開かれている。出席者の名が回想されているが、そこには竹内の名は無かった。

しかし前出の戦時下に第一書房から刊行された詩集に「木いちご」という詩が収載されている。初出の記録も解説もないが、恭次郎との赤堤での出会いを回想、追悼していることに間違いはない。

赤堤を竹内と恭次郎が連れ立って歩いている。「みどりいろの電車」とは世田谷線の電車ではないだろうか。「豪徳寺」駅で待ち合わせとしても世田谷線は横切ったのであろう。三一年、恭次郎は二度、赤堤の渓文社を訪れている。二度目の渓文社訪問では竹内が具合がよく、恭次郎を駅の方まで迎えに行けたのだろうか。いずれにしろ「駅」と渓文社をつなぐ道筋の情景を詩っているのは間違いない。木いちごに恭次郎への追憶を込めた竹内の心情はいかなるものであったか。子供と別れ病気に苦しんだ孤独の時代の後、アナキスト系詩人たちとの交友の時代を思い起こしていたのか、日本という国家の変貌か、あるいは竹内を含めての詩人たちの変貌をも恭次郎の死と重ねて思い返していたのか。

詩〈木いちご〉               竹内てるよ

雨にぬれたみどりいろの電車は/おもちやのようではないかと笑つて/並木みちの下かげに/私が木いちごのみをひろつたとき/よわいからだで/洗わない木のみをたべていゝかと/やさしく近よつてたずねたる人/一生を四十年にちゞめて/嘗て 畏敬せられ 又親しまれつゝ/赤城山のみえる町にて かの人は死んだ/木いちごの白い花が咲けば そのとき/木いちごのオレンヂいろの實がなれば/また そのとき/亡き人は/かく たくましき一生の中なるやさしさを/ほのかに 私の胸につたえて来て/木いちごの舌にころがす ほの甘きまで/一つの悲哀 なお更に/尊く切なかりしかの生涯の思い出とした


二〇〇四年六月、赤堤に移って半年がたった。あの渓文社の時代から七〇年、電車はみどり色ではなく、木いちごも見ることはなく、渓文社に拠った詩人たちもすでにいない。二人のすまいと渓文社はここら辺であったのかと住宅地に変貌した街を通るたびに思う。答えられる「場所」も「人」も不在である。時も過ぎ去ったが渓文社があの時代に刊行した書物で詩人たちの意思だけは残されている。今、この国の振る舞いは七〇年前と同じになってきた。国家が強権を行使するとき、どのような生き方があるのか。残された書物から詩人たちが国家に抗した時代の生き方を読むことは可能である。

参考文献 (本文中に記していない文献)『萩原恭次郎全集』静地社刊、一九八〇年・八二年発行。『草野心平全集』筑摩書房刊、一九七八年─八四年発行。金井新作、三野混沌、堀江末男に関しては『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版刊、二〇〇四年発行を参照。吉本孝一に関しては『吉本孝一詩集』(一九九一年一二月発行)寺島珠雄編「吉本孝一詩集刊行会」刊を参照 。
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by futei8 | 2011-06-07 07:20